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白兵戦章 (Nahkampfspange) 

こんにちは、エーデルマンです。コロナの第一波か第二波なのか分かりませんが、なかなか終息しないですね。経済が回らないから4月5月のような一斉の休業要請は出せないにしても、新宿の一定の地域・店舗は時間制限にするなり、許可制にすれば良いのにねぇ・・・まぁ、世間がGo toなんとかになっても一人ステイホームです。(単なる出不精)

さて本日はまたもや白兵戦章ネタです。
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こちらは白兵戦章 銀章(II. Stufe)です。FLLの記号でFriedrich Linden製であることが分かります。
銀章は銅章と金章の間の等級で、30日間の近接攻撃に参加した兵士へ授与されました。(金章は50日、銅章は15日)

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この業界で有名な白兵戦章の銀章授章者と言えば、『戦争のはらわた』のマイヤーですね。

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ここまで銀メッキが残っているのは珍しいと思い、一瞬フェイクを疑いましたが、白兵戦章の第一人者であるThomas M. Durante氏に写真を送って確認してもらったところ、とりあえず問題なさそうとのこと。とはいえ、あくまでネット上での判断であり、FLLはフェイクが多いので手に取ったらやっぱりアウトでした、の可能性もありますが。

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こちらはThomas M. Durante氏の白兵戦章のついての資料本とリプロ(フェイク)についての解説。(画像をクリックするとAmazonのページに移動します。)

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ところで白兵戦章の授章条件についてドイツ語版のWikipediaに詳しく描かれているのを見つけました。

・敵の白目が見える距離で、スコップなど手に持つ武器で戦ったもの。
・大規模な攻撃、偵察隊、防衛、単一の伝令行為、敵の偵察隊(との遭遇?)などの場合。
・前哨基地、駐機場、前線、砲兵陣地、前線後方または病院列車や補給所のでの戦闘(例パルチザンとの戦闘、ただし1944年8月4日以降は除外)。

(ドイツ語→英語→日本語のGoggle翻訳なので多少怪しいです・・・)

この内容では、より近接戦に限定されている印象を持ちました。また歩兵突撃章では"回"なのが、白兵戦章では"日"が単位となり、一日に何度戦闘が行われても一回とカウントすることから、30日間が授章条件というのはかなり大変だったのでは無いかと思います。

こちらは白兵戦章 銀章の所有証明書です。


Besitzzeugnis (所有証明書)
(Dienstgrad)(階級)
Dem Feldwebel(軍曹)

(Vor-und Familienname)(氏名)
Emil Baranowski  (エーミール・バラノオスキー)

(Truppenteil)(所属部隊)
4. / Div.Fus.Btl (A.A.) 75
(第75軽歩兵大隊(偵察大隊)第4中隊)

Verleihe ich für tapfere Teilnahme
an 30 Nahkampftagen
(勇敢な30日間における近接戦闘参加に対し)

die II.Stufe der
Nahkampfspange.
(白兵戦章 銀章)

Abt.-Gef.-St., den 12.10.1944.
(1944年10月12日大隊司令部にて)

(Dienstgrad u. Dienststellung)(階級と職務)
Major u. Rgt.-Kdr.
(少佐 兼 連隊長)


第75軽歩兵大隊は1939年8月26日に創立した第75歩兵師団第175偵察大隊が前身で、1939年9月のポ-ランド侵攻、1940年5月のフランス侵攻ではマジノ線の戦いに参加します。1941年6月22日から始まったバルバロッサ作戦では南方軍集団の第6軍配下でキエフ、コルムを攻略。1943年7月のクルスクの戦い、1944年1月のコルスン・チェルカッシィ包囲戦、3月のカメネツ=ポドリスキー包囲戦に参加、1945年に上部シレジアに退却後、オストラウで解体されました。

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バラノフスキー軍曹が白兵戦章を授章したのが1944年10月、授章条件を満たした戦闘が3月のカメネツ=ポドリスキー包囲戦だと間が空きすぎなので、8,9月頃頃では無いかと考え、いつものLEXIKON DER WEHRMACHTで戦歴を師団記録で調べてみました。

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8、9月は北ウクライナ軍集団の第1装甲軍に所属しており、位置はKarpaten(カルパティア山脈)となっています。

カルパティア山脈ですぐに思い出したのが「最強の狙撃手」です。ゼップ・アラーベルガーが所属する第3山岳師団がカルパティア前線で防戦する記述がありました。

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北方からカルパティア前線に加えられる圧力は日増しに強くなった。第三山岳師団の司令部は、完全に伸びきった前線区域をできるかぎり確保しようとつとめ、ルーマニアの同盟軍もこの奮戦にしっかりと組み込まれていた。ゼップが戻ってから数日後、ロシア軍の系統だった最初の攻撃が始まり、八月半ばには苛烈さを増すばかりだった。一九四四年八月一九日、隣接する第一三八山岳猟兵連隊におけるロシア軍の砲撃は激しさを増して移動弾幕弾射撃となり、続いて猛然たる総攻撃を加えてきた。
-「最強の狙撃手」より-

こちらもLEXIKON DER WEHRMACHTで調べると第3山岳師団は確かにカルパティア山脈の南東部に展開していたようです。

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1944年7月22日-8月19日の前線地図。第3山岳師団が所属する南ウクライナ軍集団が山脈(緑)南部に位置しています。

第75歩兵師団に話を戻すと、ポーランドとの国境に近いリヴォフの北東ブロディ近辺で展開中にソ連軍の総攻撃「リヴォフ=サンドミール作戦」(1944年7月13日–8月29日)に巻き込まれます。

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「リヴォフ=サンドミール作戦」はバグラチオン作戦(1944年6月22日- 8月19日)に呼応したもので、目的はドイツ+ハンガリー混成部隊の北ウクライナ軍集団の殲滅とウクライナの解放、ヴィスワ川で橋頭堡を確保することでした。

ソ連軍の第1ウクライナ方面軍(将兵120万以上、戦車2,050両、火砲・迫撃砲約16,000門、航空機3,250機)の攻撃に、北ウクライナ軍集団は将兵90万、装甲車両900両、火砲6,300門で抗戦しますが、消耗が激しく、リヴォフ占領後は潰走が続きついに8月29日にはウクライナから完全に撤退します。

こちらは8月1日時点の第75装甲師団の作戦地図ですが、リヴォフの南部でソ連軍と対峙していることが分かります。
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9月以降もソ連軍の攻撃は手は緩まず、第75歩兵師団はポーランドのクラカウ南部のベスキディまで退却を余儀なくされます。(バラノフスキー軍曹が白兵戦章 銀章を授章したのはベスキディにおいてと思われます)

最期に、前回の記事で一つ修正。前回紹介したこちらの白兵戦章ですが、実は銀章ではなく銅章のようです。

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これは先のDurante氏でなく他のコレクターからの指摘で、どうやら銅メッキの剥げ落ちた銅章とのこと。確かに言われてみれば、そのように見えなくも無いかと。

さっそく手持ちの銅章(下)と並べてみました。ちなみに二つともFFL製ですが、製造した時期でデザインが違います。

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確かに表側は同じような色落ち具合でどちらも銀章に見えますね。一方の裏側を見ると、オリジナルの状態が残っており留め金(矢印)が上と下で色が微妙に違います。上の留め金は銀、下の留め金は銅色っぽいような・・・まぁ、自分は勲章に関してド素人なので銅章という意見には納得しています。
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白兵戦章 (Nahkampfspange) 

こんにちは、エーデルマンです。本日は以前こちらでアップした白兵戦章(Nahkampfspange)について詳細に記事にしたいと思います。

白兵戦の語源は刀や剣、ナイフなどの武器を白刃と呼ぶことからだそうです。近接で殺し合う白兵戦は、弓矢や石弓が存在していた中石器時代のみならず、小銃やさらに短機関銃といった遠距離武器が発達した近代においても、勝敗を決する時にはしばしば行われました。

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ドイツ軍の教本(ヘルメットの形状からナチス政権時代に発行されたと思われる)に掲載されている銃剣攻撃を防御する方法(左)と銃剣攻撃の訓練するドイツ軍兵士(右)

shovel0-1.jpg 
銃剣やナイフや以外に、スコップも即席の打撃武器として使用されたことは良く知られています。
白兵戦は戦士として本来の資質と勇敢さが必要とされる戦いであり、それに勝ち残った兵士は称賛に価されました。

ドイツ軍は勇敢な兵士を称える為、1939年12月20日に歩兵突撃章(Infanterie-Sturmabzeichen)が陸軍総司令部のヴァルター・フォン・ブラウヒッチェによって制定されました。

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ヴァルター・ハインリヒ・アルフレート・ヘルマン・フォン・ブラウヒッチュ(長い・・・)は1881年にシレジア貴族で代々軍人の家系に生まれます。士官学校を卒業後、貴族出の軍人らしく順当に少佐まで昇進。第一世界大戦後はライヒスヴェーアで少将になったところでナチス政権が樹立、ヒトラーに陸軍元帥に任命されます。

歩兵突撃章(銀章)
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歩兵突撃章(銅章)
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機械化歩兵や山岳猟兵に対しては銅章が1940年6月1日に制定されます。

歩兵突撃章の授章条件は、その名の通り、突撃を3回以上行い、それぞれで第一線で武器を取り、肉弾戦を行った者となっていました。
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しかしながら1941年に独ソ戦が始まると、戦闘はこれまでにない程に激しさを増し、歩兵突撃章の上位の戦功章が求められるようになります。

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セヴァストポリの戦い(1941年9月~1942年7月)で負傷した戦友を運ぶドイツ軍兵士

そこで、1942年11月25日に白兵戦章(Nahkampfspange)が制定され、戦闘日数によって金章(III. Stufe)、銀章(II. Stufe)、銅章(I. Stufe)が授与されることになりました。(なお重度の負傷により、これ以上の戦闘続行が不可能と判断された場合、規定の日数はそれぞれ40日、20日、10日に短縮されます)

15日:銅章(I. Stufe)
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30日:銀章(II. Stufe)
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50日:金章(III. Stufe)
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授章対象は国防軍兵士他、武装親衛隊で銅章が3万6400人、銀章が9500人、金章が631人に授与されたようです。

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金章の栄誉は騎士鉄十字章にも匹敵し、ヒトラーが直々に授与することもありました。

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こちらは銅章のバックプレートと刻印。A.G.M.u.K(Arbeitsgemeinschaft Metall und Kunststoff)はメーカー名でGABLONZは工場があった地名(ズデーデン地方の都市 現:チェコ共和国)です。A.G.M.u.K製の白兵戦章にバリエーションが6種類あり、こちらは"ラージフォント"と呼ばれています。
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銀章、金章には3つの〇にそれぞれF、L、Lの文字が入った記号があります。これはメーカー名でFriedrich Linden, Lüdenscheidを表します。また、金・銀・銅いずれも左側に"FEC.W.E. PEEKHAUS BERLIN"の刻印がありますが、"FEC"はラテン語の"Fecit"の短縮形で“~製”、"W.E. PEEKHAUS"は、多くの戦時メダルをデザインしたグラフィックアーティストのWilhelm Ernst Peekhausを意味します。

所有証明書:BESITZZEUGNIS
PD21
Besitzzeugnis (所有証明書)

(Dienstgrad)(階級)
Dem Unteroffizier(伍長)
 
(VOR-UND FAMILIENNAME)(氏名)
Heinrich Stretz  (ハインリヒ・シュトレッツ)

(TRUPPENTEIL)(所属部隊)
StabII. / Pz.Gren.Rgt.40
(第40装甲擲弾兵連隊第2大隊司令部)


VERLEIHEICH FÜR TAPFERE TEILNAHME 
AN 15 NAHKAMPFTAGEN

(勇敢な15日間における近接戦闘参加に対し)

DIE 1.STUFE DER 
NAHKAMPFSPANGE

(白兵戦章 銅)

(ORT UND  DATUM) (場所・日付)
Im Felde, den 1.6.1943
(1943年6月1日前線にて)

(UNTERSCHRIFT)(署名)
gez. Henrich
*gez=gezeichnet 署名省略

(DIENSTGRAD UND DIENSTSTELLE)(階級と職務)
Oberst und Rgt.-Kdr.
(大佐 連隊長)


Für die Richtigkeit(代理署名)
Lt. und Rgt.Adj. (少尉 連隊長副官)


この勲記は第40装甲擲弾兵連隊第2大隊司令部(StabII. / Pz.Gren.Rgt.40)所属のハンイリヒ・シュトレッツ 伍長に授与された銅賞の勲記です。1943年3月初旬~中旬にハリコフ第3次攻防戦での戦闘で授章条件を満たしたようです。(詳細はこちら

/GR103-4-2.jpgBesitzzeugnis (所有証明書)

(Dienstgrad)
(階級)
Dem Unteroffizier.(伍長)
 
(Vor-und Familienname)(氏名)
Karl Lindner  (カール・リントナー)

(Truppenteil)
(所属部隊)
I. / Pz.Gren.Rgt 103
(第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第1中隊)

Verleihe ich für tapfere Teilnahme
an 15 Nahkampftagen
(勇敢な15日間における近接戦闘参加に対し)

die 1.Stufe der
Nahkampfspange

(白兵戦章 銅)

Rgt.-Gef.-St., den 28.12.1944.
(1944年12月28日連隊司令部にて)

Oberst u. Rgt.-Kommandeur
(大佐 連隊長)


Walter Palm大佐による署名 。1945年3月20日に最後の第14装甲師団長として就任。

※こちらの所有証明書はゼラチン複写版=ヘクトグラフ(Hektograph)で作られています。印刷された証明書が手元にない場合、仮発行用とされました。

こちらは第14装甲師団第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第1中隊(I/Panzergrenadier-Regiment 103)のカール・リントナー伍長の勲記。クールラント包囲戦で行われた15日間の近接攻撃参加により1944年12月28日に銅章を授章しました。(詳細はこちら
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上記で紹介した白兵戦章の所有証明書とハンリヒ・シュトレッツ伍長のポートレート。歩兵突撃章や白兵戦章は現場対応能力が問われる戦功章で、子供の頃からケンカが苦手でヘタレ(関西弁で"臆病な")な自分としてはずっと憧れの存在でした。


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Yサスペンダー (Koppeltragegestell für Infanterie)  コットン製

こんにちは、 エーデルマンです。新型コロナウイルスですっかり世の中変わってしまいましたね。初めは戸惑いだらけだったテレワークも二か月たつとむしろオフィスでフェイスtoフェイスで仕事するのが違和感を感じるようになって来ました。緊急事態宣言が緩和されるまであと2週間ほどの我慢ですが、緩和後はコロナ前と同じ生活には戻れないでしょうね。

さて本日はコットン製Yサスペンダー(以下:Yサス)をアップします。2012年に掲載した記事のアップデートとなるので基本的に記載内容は同じです。(言い回しや価格情報、写真などは変更しています)

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コットン製Yサスはコレクターの間で、トロピカルYサスペンダー、又はDAK(ドイツアフリカ軍団)ストラップとも呼ばれており、革製Yサスよりも入手が困難でコレクター市場では400ユーロ以上で取引されています。(←2012年当時の価格。2020年現在ではかなり値上がりしています)

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タミヤ「ドイツ・アフリカ軍団歩兵セット」のパッケージと熱帯仕様の軍装


装備がコットン製で作られるようになった理由は気候に関係します。
ご存知の通り、サハラ砂漠で有名な北アフリカは、地中海沿岸部の一部を除き降水量が少なく日差しが強烈な砂漠気候です。

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1941年の北アフリカ戦線

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サハラ砂漠の衛星写真(Wikipediaより)

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砂漠を進むドイツ軍オートバイ兵


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このような高温・乾燥した砂漠気候では少しでもメンテナンスを怠ると革はすぐにヒビ割れ、ボロボロなってしまいます。装備の管理にはうるさいドイツ軍もそこまでの労力を兵士に負わせるのは宜しく無いと考えたのか、地中海の熱帯地域向けに開発されたコットン製(キャンバス)の装備をアフリカに派遣する兵士にも支給します。このYサス以外にも銃剣やスコップのホルダー、ウエストベルト、装備ストラップなどもコットン製で作られたものが多く存在しています。

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コットンで作られている以外は基本的に革製Yサスと構造や金具は同じです。

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中央のOリングの裏当て部分は革製ですが、極初期のタイプはコットン製です。工場ナンバー(RB Nr)の刻印がありますが、どの工場を意味するのかは不明です。
 
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こちらは極初期のコットン製Yサスです。現存するモノは非常に少なく市場に出回ることはほとんどありません。(画像はお借りしています)

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こちらのバックストラップはウエストベルトへ取り付けるフック金具が革で補強されています。
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今回の記事を書くにあたり、北アフリカ戦線の写真を調べていて、他の戦線に比べるとYサスを装着している兵士の写真が極端に少ないことに気がつきました。Yサスの支給率は低かったのでしょうか?
砂漠が戦場であったことが大いに関係しているのではないかと思い、砂漠戦について調べてみました。


手持ちの「北アフリカ戦線」(学習研究社)には「北アフリカの砂漠という地形は(中略)機械化部隊による機動戦に適し、その原則を完全に適用できる第二次大戦で唯一の戦場であった。特にドイツ・アフリカ軍団は、エルヴィーン・ロンメル将軍という装甲機動戦を得意とする稀に見る名将を指揮官としていたために、砂漠における機動戦の優位性を存分に発揮した」とあります。

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機械化した部隊では歩兵は装甲車や兵員輸送トラックで移動し、装備も輜重部隊が運搬したと考えられます。Yサスは別名、重装サスペンダーとも呼ばれ歩兵が単独で個人のテントやツェルトバーンなどの装備一式を携帯できるように開発されたものですが、アフリカ戦線のドイツ軍兵士は輜重部隊の存在によってYサスで重装備をする必要が無かったのでしょう。(そのことがYサスの希少性に関連しているのかどうかは不明です)

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軽装すぎる?
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北アフリカ戦線以降もコットン製の装備は革の節約の目的で継続して生産されます。全ての戦域においてコットン製Yサスを着けた兵士の姿を当時の写真に見ることができます。

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Heinrich Stretz伍長(第17装甲師団第40装甲擲弾兵連隊)

こんにちはエーデルマンです。本日は先日入手した第17装甲師団第40歩兵連隊所属兵士のゾルトブーフ(Soldbuch)と勲記(Urkunde)/所有証明書(Besitzzeugnis)から師団とそこに所属していた一兵士の戦いを時系列に紹介したいと思います。なお、ヴェアパス(Wehrpass)が残念ながら存在していない為、兵士個人の活動は、師団の行動記録をベースにした推測であることを予めお断りしておきます。

ゾルトブーフの所有者名はハインリヒ・シュトレッツで1919年9月19日にバイエルン州バンベルク群オーバーハイト (Oberhaid)で生まれ。1940年10月10日に入営、第27通信補充中隊で基礎訓練を受けた後、1941年2月14日に第17装甲師団第40歩兵連隊第2大隊本部(17 Panzer Division Schützen-Regiments 40 Stab II)に配属されます。

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なお第17装甲師団は1936年10月1日にアウグスブルク第27歩兵師団が前身で1938年3月のオーストリア制圧作戦、1939年9月のポ-ランド侵攻、1940年5月のフランス侵攻に参加した後、1940年11月1日に第17装甲師団として再編成されます。

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第17装甲師団の師団マーク。まんま円マークです。

第17装甲師団は1941年6月のバルバロッサ作戦において、中央軍集団、ハインツ・グデーリアン指揮下の第二装甲集団に配置されソ連へ侵攻。ブグ川を越えてミンスクへ向かい、1941年6月22日から29日で行われたミンスク包囲戦(ビアウィストク=ミンスクの戦い)での勝利に貢献します。

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この時シュトレッツ上等兵(Gefreiter)は優れた活躍をしたようで、ゾルトブーフ(Soldbuch)の記録によれば1941年7月27日付で二級鉄十字章(Eiserne kreuz 2. klasse)を授与されます。

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その後、第17装甲師団は「タイフーン作戦」に参加する為、首都モスクワへ進撃します。師団は10月3日にオリョール、10月6日にはブリャンスクを攻略します。

さらにモスクワ攻略を目指す師団に立ちはだかったのは、秋の長雨で泥濘と化したロシアの未舗装路とソ連軍の新型戦車T-34/76です。T-34/76の幅広い履帯は泥沼化した状態でも進むことが出来、傾斜装甲はIII号やIV号戦車の徹甲弾をことごとく弾き、ドイツ兵にいわゆる「T-34ショック」を与えます。

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T-34/76とドイツ軍の主力戦車であるIII号戦車の比較。T-34/76の76は戦車砲の口径で当時のドイツ軍標準装備の37mmに比べて倍の威力がありドイツ軍戦車の射程外から攻撃が可能。またT-34はIII号戦車と比べて曲面が多く、避弾経始を考慮した装甲になっています。(ただし初期のT-34は無線機が搭載されておらず、戦車兵の練度も低かった為、ドイツ軍は連携プレーでなんとか互角の戦いに持ち込むことも可能でした)

第17装甲師団の攻撃目的はトゥーラに決定されます。トゥーラは中世から外敵(タタール人など)から幾度にも渡る包囲攻撃に耐えた要塞都市であり、また18世紀から鉄や兵器工業の拠点として発展しました。モスクワを防衛するソ連軍の兵力を削ぐにもトゥーラの攻略は必須となります。

9月30日から10月30日の戦線。濃い矢印は第二装甲集団の進撃コース。(出典:Wikipedia)
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ところで上記の地図でも分かる通り、1か月間の移動距離は第二装甲集団が最も長く、当然兵站路は長く伸び切った状態になってしまいます。元々ドイツ軍の東方への鉄道輸送能力は不十分で、さらにトラック輸送もロシアの道路は舗装されておらず秋季は雨や雪ですぐに泥沼化し、輜重隊は前線部隊に追いつけず、常に武器弾薬や燃料、食料不足に悩まされます。

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このような状態でもドイツ軍はトゥーラ包囲に成功しますが、物資不足に喘ぐ部隊にとって強固に要塞化された都市の攻略は容易では無く、膠着状態のまま迂回してモスクワへ進撃することを決定します。

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雪中行軍する第17装甲師団兵士。11月に入ると気温は急激に下がり、マイナス20℃以下になることも。戦車や装甲車のエンジンオイルが凝固してしまい、車体の下に穴を掘りそこで焚き火をしてエンジンを温めて始動する必要があったようです。

前線将兵の多くが侵攻時に支給された装備のままだった為、防寒着の配備が要請されますが、前述のとおりロジスティックスの問題でほとんど前線に供給されることはありませんでした。この間、凍傷にかかる兵士が続発し、戦闘での傷病をも上回る異常事態となります。

11月末には第4装甲集団が西方面から攻撃を加え、クレムリンまで25kmの地点のモスクワ郊外まで到達しましたが、それ以上進撃する戦力はもはやドイツ軍には残されていませんでした。

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これを機とみたソ連軍は12月初旬に反攻作戦を開始、ドイツ軍は一転して守勢に回ることになります。第17装甲師団はトゥーラから撤退し、オリョールの北東地区まで防衛線を下げます。

さてここでシュトレッツ上等兵に話を戻します。LEXIKON DER WEHRMACHTによれば第17装甲師団はトゥーラ包囲網に加わっており、上等兵もその場にいたことは間違いありません。

ゾルトブーフの授章ページを見ると、1942年1月12日付で戦車突撃章(銅)(Panzerkampfabzeichen-Bronze-)を授章しています。
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所有証明書:BESITZZEUGNIS
Besitzzeugnis (所有証明書)

(Dienstgrad)
(階級)
Dem Gefr.(軍曹
 
(Vor=und Zuname)(氏名)
Heinrich Stretz  (ハインリヒ・シュトレッツ)

(Truppenteil)(所属部隊)
Stab II/ S.R.40
(第40歩兵連隊第2大隊本部)


wurde das
Panzerkampfabzeichen

(戦車突撃章)
― Bronze―
(銅)

Div.-Gef.-St., den 5.1.42.
(1942年1月5日師団司令部にて)
(Ort und Datum)(場所と日付)

Oberst u. Führer 17.Pz.Div.(大佐 第17装甲師団長)
(Dienstgrad und Dienststellung)(階級と職務)
Licht, Rudolf-Eduard大佐(当時)による署名 。
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戦車突撃章は、戦車戦における戦車兵の戦功を称えるために1939年12月20日に制定されました。1940年6月6日には銀章に加えて銅章が制定され、戦車以外の装甲車に搭乗している兵士も勲章の授与対象にとなりました。
戦車突撃章(銅)の授与資格は下記の通りです。

・それぞれ別の日に行われた突撃に、計三回参加した者
・突撃で負傷した者
・突撃で勇敢な行動をとった者

ドイツ装甲部隊の戦い方については、“グロースドイッチュランド・師団写真史に記述があるので掲載します。

“グロースドイッチュランド”師団写真史―東部戦線におけるGD機甲擲弾兵師団1942‐1944
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1942年と1943年における機甲部隊の基本的な陣形は鋭い楔(くさび)形であり、戦車を先頭に立てた戦車大隊が後方に行くに従って幅を広げながら展開するというものだった。典型的な例では、2個中隊が並んで進み、その後を大隊の本部中隊、さらに第3中隊が続く。通常、自走式の砲兵部隊は後ろにつき、ハーフトラック(装甲兵員車)の機甲擲弾兵部隊は戦闘に立つ戦車部隊の後ろに位置する。

-グロースドイッチュランド”師団写真史―東部戦線におけるGD機甲擲弾兵師団1942‐1944より-

シュトレッツ上等兵はハーフトラック「Sd.Kfz.251」に搭乗し戦車に随伴して戦う、機械化歩兵として戦功を立てたと考えられます。

モスクワ攻防戦が終了した後も、第17装甲師団は1942年11月までオリョールを保持します。この間、シュトレッツ上等兵は伍長に昇進、そして当然の事ながら東部戦線冬季戦記章を授章します。

1941/42年東部戦線冬季戦記章:WINTERSCHLACHT IM OSTEN 1941/42

GR103-29.jpg

勲記:URKUNDE
/PD17_15-2.jpg
 IM NAMEN DES FÜHRERS 
UND
OBERSTEN BEFEHLSHABERS
DER WEHRMACHT

(総統兼国防軍最高司令官の名において)
IST DEM

Uffz Stretz  (シュトレッツ伍長)

AM 20.8 42 (1942年8月20日)

DIE MEDAILLE 
WINTERSCHLACHT IM OSTEN
1941/42

(1941/42年東部戦線冬季戦記章)
(OSTMEDAILLE)(東部戦線従軍記章)

VERLIEHEN WORDEN. (ここに授与する)

FÜR DIE RICHTIGREIT:(代理署名)

Obertsu. u. Rgts.-Kdr.
(大佐 連隊長)


授章条件は1941年11月15日から1942年4月15日での14日間での14日間の戦闘参加なのでシュトレッツ軍曹は該当します。 

・14日間戦闘に参加した者(空軍兵士は30回の出撃)
・60日間非戦闘活動に従事した者
・戦闘で負傷した者
・戦死した者
・戦傷章に値する程度の凍傷もしくは冬季の風土による負傷をした者

同じ時期に伍長は一級鉄十字章も授章しています。

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残念ながら一級鉄十字章の勲記は失われてしまっており、ゾルトブーフの授章記録のみ。授章は1942年8月24日で署名は東部戦線従軍記章と同じWalter Henrich大佐です。シュトレッツ軍曹がどのような戦功をあげたかは不明ですが、41年という比較的初期の時期から、かなり目覚ましい活躍をしたのでは無いかと思います。(後になるほど一級、二級鉄十字の授章基準は緩くなった為)

1942年11月19日、ソ連軍は反攻作戦、"天王星(ウラヌス)作戦”を実施、第6軍を中心とした約33万人の枢軸軍はスターリングラードで包囲されます。
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すぐさまソ連の包囲網を突破し第6軍に補給物資と増援部隊を送るための「回廊」を作り上げる「冬の嵐作戦」(と、裏では第6軍が包囲網から脱出させる「雷鳴作戦」)が立てられ、マンシュタイン元帥を司令官とするドン軍集団が新設されます。

第17装甲師団は“火消し役”としてドン軍集団に加わることになり12月10日までにオリョールから南西540kmのミレロヴォへ移動、そこからさらに南西250kmのコテリニコヴォへと進軍し、LVII(第57)装甲軍団 第4装甲軍に加わります。第17装甲師団は12月12日の作戦開始と同時に戦闘に加わる予定でしたが、ソ連軍の反攻に備えて戦力を温存しておきたいヒトラーは最初同師団の使用をなかなか許可しませんでした。

1942年末のスターリングラード戦線(出典:Wikipedia)
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コテリニコヴォはマンシュタインが冬の嵐作戦の開始点とした場所でスターリングラードの中心から130kmの距離に位置します。

その後の展開についてはWikipediaから引用します。
14日、マンシュタインはヒトラーを説得してヒトラーがチル川からの攻勢の為に保持していた第17装甲師団を攻勢部隊に加えることに成功し、17日より第17装甲師団は左翼で攻勢に加わった。16日にマンシュタインは、LVII装甲軍団が、ムイシコワ川を越えて包囲網に到達できる見込みが少なくなりつつあるので、第6軍が南西に向かって攻勢(脱出)をかける事を求めたが、ヒトラーはこれを拒否した。

 ムイシコワ川へのドイツLVII装甲軍団とソ連第2親衛軍の競争は、結局ソ連軍が勝ち、ドイツ軍の到着前に第2親衛軍はムイシコワ川に布陣した。17日から21日まで、ムイシコワ川で、激戦が続いたが、LVII装甲軍団は、ついにソ連軍の防衛線を破ることはできなかった。

19日には、マンシュタインは、軍集団情報参謀のアイスマン少佐をスターリングラードに送って、パウルスの説得を試みたが、パウルスと第6軍参謀長のアルツゥール・シュミット少将は、今の第6軍には脱出作戦をやれる燃料も力もないと、脱出作戦の発動について否定的な回答を行い、これを受けて、改めてヒトラーは脱出作戦の発動を拒否した。

23日には、第6装甲師団はチル川戦線へ転用され、事実上、救出作戦は打ち切りとなった。第51軍と第2親衛軍は、22日よりムイシコワ川の線で攻勢に出て、24日には、ドイツ軍をアクサイ川まで押し戻してしまった。
-Wikipedia「冬の作戦」より-

この作戦で第17装甲師団は大きな損害を受け、30輌あった戦車(III号、IV号)が最後は戦車は8輌、対戦車砲は1門となり12月末にロストフまで撤退します。

スターリングラードの戦いで圧勝したソ連軍はハリコフの奪還を狙う「星作戦」を発動、結果としてベルゴロド、ハリコフ、クルスクを奪回します。しかしながらあまりの進撃の速さに補給線が伸びきってしまい、燃料不足で多くの車両が稼働できないという失敗を犯してしまいます。

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マンシュタインはこの機を逃すまいと反撃に出ます。(第3次ハリコフ攻防戦)ロストフで戦力の補充をした第17装甲師団はドン軍集団から改組された南方軍集団の一つ、第48装甲軍団 第1装甲軍に編入され攻防戦に投入されます。
PD22.jpg
第3次ハリコフ攻防戦の詳細な経緯は省略しますが、シュトレッツ軍曹は、この作戦期間中の戦功により白兵戦章(銅)(NAHKAMPFSPANGE I. Stufe) を授章します。

CCC.jpg 

所有証明書:BESITZZEUGNIS
PD21
Besitzzeugnis (所有証明書)

(Dienstgrad)(階級)
Dem Unteroffizier(伍長)
 
(VOR-UND FAMILIENNAME)(氏名)
Heinrich Stretz  (ハインリヒ・シュトレッツ)

(TRUPPENTEIL)(所属部隊)
StabII. / Pz.Gren.Rgt.40
(第40装甲擲弾兵連隊第2大隊司令部)


VERLEIHEICH FÜR TAPFERE TEILNAHME 
AN 15 NAHKAMPFTAGEN

(勇敢な15日間における近接戦闘参加に対し)

DIE 1.STUFE DER 
NAHKAMPFSPANGE

(白兵戦章 銅)

(ORT UND  DATUM) (場所・日付)
Im Felde, den 1.6.1943
(1943年6月1日前線にて)

(UNTERSCHRIFT)(署名)
gez. Henrich
*gez=gezeichnet 署名省略

(DIENSTGRAD UND DIENSTSTELLE)(階級と職務)
Oberst und Rgt.-Kdr.
(大佐 連隊長)


Für die Richtigkeit(代理署名)
Lt. und Rgt.Adj. (少尉 連隊長副官)


所属部隊の名称は1942年7月5日付で歩兵連隊(S.R=Schützen-Regiments)から装甲擲弾兵連隊(Pz-Gren.Rgt=Panzer Grenadier-Regiments)へ変更されています。白兵戦章は近接攻撃を行った兵士に与えられる戦功章で、授章する条件は日数で金章(III. Stufe)が50日、銀章(II. Stufe)が30日、銅章(I. Stufe)が15日となっています。

PD23.jpg 
突撃砲に跨乗し前線へ移動する装甲擲弾兵。

6月に授章していますが、3月初旬~中旬にハリコフで行われた戦闘で授章条件を満たしたことは間違いありません。なぜならハリコフ攻防戦後、春の泥濘期に入ったこと、部隊には休養が必要だったこともあり、独ソ双方の軍事行動が「ツィタデレ作戦」(5月初旬に開始する予定が、7月まで延期)まで行われなかった為です。

PD25.jpg
なお、ゾルトブーフには1943年4月1日から17日までOschatz(ドイツ)の軍用予備病院で”21”(=腸カタルもしくは胃カタル)による入院記録があり、退院後は5月2日まで回復休暇を取得しています。前回の1943年1月の入院も同じ病名です。

PD24.jpg
シュトレッツ伍長のポートレイト。授章した全ての戦功章を偏用していることから、ハリコフ攻防戦の後に撮影されたことは間違いなく、1943年9月9日から24日の休暇中に写真館で撮影したものと思われます。

撮影には古参兵らしくダークグリーン襟のM36野戦服を着用しています。襟章は1933年採用のリッツェンが兵科によって違う初期のタイプです。ゾルトブーフには最初の野戦服は1940年11月15日に1着支給されていることが記録されており、1943年5月3日には新しい服、恐らくM42野戦服が1着支給されていますが、撮影に着用している野戦服は見た目が新しく、個人で仕立てた外出用の野戦服で撮影したと思われます。

PD31.jpg
延期された「ツィタデレ作戦」が7月5日に開始され、史上最大の戦車戦「クルクスの戦い」が行われます。第17装甲師団はこの戦いには参加せず、予備兵力として後方で守備にあたります。クルクスの戦いに敗れた後、9月にドネツからドニエプル川西側へ後退、翌年の44年には、師団はコルスン=チェルカッシー包囲戦(1944年1月24日 ~2月16日)に救援部隊として前線へ向かいます。

ところで伍長のゾルトブーフには1944年2月2日付で新しい装備一式を受領した記録があり、その時の所属部隊は第40装甲猟兵連隊では無く、第110装甲猟兵連隊です。これにより2月以前に第11装甲師団へ転属したこと判明しました。

LEXIKON DER WEHRMACHTで両師団の戦歴を見てみます。

PD30.jpg
どちらも同じ第8軍に所属しており、第11装甲師団は1月末、第17装甲師団は2月初旬に包囲網に対して攻撃を行っています。
この包囲戦でドイツ軍側は19,000人の戦死者・捕虜・行方不明者を出しますが、40,000人強が脱出に成功しており、「ドニエプル川におけるスターリングラード攻防戦の再来」は免れることが出来ました。

800px-11th_Panzer_Division_logo_2.jpg800px-11th_Panzer_Division_logo_3.jpgPD26.jpg 

第11装甲師団のシンボルは3種類。左から正式な師団マーク、クルスク戦車戦時のマーク、そして非公式の"幽霊"マーク。
こちらはユーゴスラヴィア侵攻作戦時の写真。車体には正式な〇に縦一文字のマークと幽霊マークを併記しています。
Bundesarchiv_Bild_101I-770-0280-20,_Jugoslawien,_Panzer_IV

包囲網から脱出した後、第11装甲師団はフランスへ配置転換となり、フランス国内を転々とした後、バルジの戦い(1944年12月16日~1945年1月25日)、そしてレマゲンの戦い(1945年3月7日)に参加します。
ゾルトブーフを見る限り、シュトレッツ伍長がこれらの戦いに関わった形跡は見当たりませんが、ゾルトブーフに同梱されていた師団発行の休暇証明証と乗車券からバルジの戦いの直前11月9日から12月1月まで休暇で故郷のオーバーハイドに戻ったことが分かります。
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PD28-1.jpg

ゾルトブーフの記録は1945年1月14日が最後となっており、その後のシュトレッツ伍長の足取りは残念ながら不明となっています。兵士が所持するゾルトブーフが存在していること、どこか伍長の面影のある初老の人物の写真がゾルトブーフに同梱されていたことから、生きて故郷へ戻れたと信じたいと思います。


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ストレートスコップ用キャリングケース (Träger für Schanzzeug)

こんにちは、エーデルマンです。ついに緊急事態宣言が出ましたね。これまで以上に一層、気を引き締めていきたいと思います。さて、本日だいぶ前にコレクター仲間から譲っていただいたストレートスコップ(Schanzzeug)のキャリングケース(Träger)をお披露目したいと思います。

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こちらは1943年製のストレートスコップ用に人工皮革(圧縮した紙製、独Preßstoff)で作られたケースで、1943年以降の統一色であるダークイエロー(独Dunkelgelb)で塗装されています。
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同じ1943年製でも黒く塗装された人工皮革のケースとの比較。ダークイエローで塗装された人工皮革が使用された軍装品はスコップケース他に、MG34ガンナーズポーチ双眼鏡収納ケース、工兵用ワイヤーカッターノコギリ収納ケースなど枚挙にいとまがありません。

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ウエストベルトを通すループは本革製で黒染めされています。

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ベルトループは前後の人工皮革で挟んで縫い付けられています。

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スコップの柄に固定する為のストラップも本革製です。

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柄に一回巻いてバックルで固定します。

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バックルはドイツ軍装品でよく使われているローラーのある典型的なタイプです。

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皺(しぼ)がローラーで型押しされて、革の表面が表現されています。

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タコ糸のような太い糸で強力な力で縫い合わされています。人工皮革の断面を見れば紙製なのが分かりますね。
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ストレートスコップを収納。折り畳み式スコップ(Klappspaten)が導入されてからも、シンプルで生産性の優れたストレートスコップは終戦まで製造されます。

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ナルヴィク盾章(Narvikschild)

こんにちは、エーデルマン@自宅待機中です。1か月前に更新した時は、まさかコロナウイルスがここまで蔓延するとは思っていませんでした。現在欧米を中心に感染・死者が急増、日本も東京で感染者が一日で60人以上出るなど収束する気配が微塵もありません。東京オリンピックも延期になったし、こうなったら長期戦を覚悟するしかありませんね。

さて、気を取り直して今回はナルヴィク盾章(Narvikschild)を紹介したいと思います。

Narvik00.jpg
こちらはノルウェー北部の港町ナルヴィクをめぐって行われた戦闘、"ナルヴィクの戦い"(1940年4月9日~6月8日)に参加したドイツ軍兵士に授与された盾章です。

ナルヴィク盾章についての説明はいつもの様にWikipediaから引用させていただきます。

1940年8月19日にアドルフ・ヒトラーにより制定されたこの盾章は、ミュンヘンの芸術家リヒャルト・クライン(英語版)によってデザインされた。

主に亜鉛を原料として生産されたが、初期では真鍮を原料として生産されたこともある。盾章は所属組織により盾及び佩用時に使用する当て布の色が異なっていた。

陸軍 - 盾:銀色 当て布:灰色
空軍 - 盾:銀色 当て布:灰青色
海軍 - 盾:金色 当て布:深青色

デザイン
上部に国家鷲章を配し、その下に「NARVIK」と書かれている。盾の部分には、陸軍を表すエーデルヴァイス、海軍を表す錨、空軍を表すプロペラが、ナルヴィクの戦いが勃発した年である「1940」とともに描かれている。

佩用
基本的に軍服の左上に当て布を当てて佩用する。しかし、美しさを求め、盾章単体をピンで直接佩用する者もいた。

授与総数

陸軍 - 2,755人(死後追贈96人)
空軍 - 2,161人(操縦士1,309人、落下傘部隊756人、死後追贈410人)
海軍 - 3,661人(駆逐艦乗組員2,672人、商船乗組員442人、死後追贈432人)
-Wikipedia「ナルヴィク盾章」より-
”陸軍を表すエーデルヴァイス”と書かれていますが、ご存知の通りエーデルヴァイスは山岳部隊のシンボルで、まさにこの戦い“”に参加した山岳猟兵を称えたものとなっています。

まずはドイツがなぜノルウェーに侵攻したのか、非常にざっくりですが説明してみます。

ー1939年9月に英仏との戦争が勃発し、100%輸入に頼っていた鉄鉱石が中立国であるスウェーデンからしか入ってこなくなった。

Narvik10.jpg 
戦争をするには兵器の原料である鉄が必要不可欠です。スウェーデンは良質な鉄鉱石の産地でした。

ースウェーデンの鉄鉱石は夏季はボスニア湾からバルト海を通ってドイツへ海上輸送されていたが、冬季はボスニア湾が凍結する為、ナルヴィク港からノルウェーの領海内を航行して運ばれていた。

 Narvik9.jpg 
ピンクは夏季、青は冬季ルート。ナルヴィクは不凍港として有名でした。

ーヒトラーはイギリスが海上封鎖を目的にノルウェーへ侵略することを懸念、先にノルウェーを占領し輸送ルートを確保すると同時に、イギリスを攻撃するUボート基地として利用する侵攻作成を計画した。

ナチスドイツは英仏による侵略からノルウェーの中立を保護する為という口実で、1940年4月9日(ヴェーザー日)にデンマーク・ノルウェーへ侵攻します。(ヴェーザー演習作戦:ドイツ語: Unternehmen Weserübung)


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ヴェーザー演習作戦でデンマークへ侵攻したドイツ国防軍とデンマーク軍との6時間弱の戦闘は『エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略 』、ノルウェー侵攻前夜から国王が降伏要求を正式に拒否するまでの4日間については『ヒトラーに屈しなかった国王』で描かれています。

ノルウェー侵攻の第一目的であるナルヴィク港にはエデュアルト・ディートル少将が指揮する第3山岳師団第139山岳猟兵連隊が上陸、4月9日早朝、ノルウェー防衛軍からの抵抗もなく無血占領に成功します。
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しかしながら、山岳部隊を運んできたドイツ海軍の駆逐艦10隻はイギリス艦隊との二度の海戦(第一次、二次ナルヴィク海戦)で全滅、制海権を奪われたドイツ軍(上陸した山岳猟兵2,000名と海戦で生存したドイツ駆逐艦乗員2,600名)はナルヴィクで孤立します。
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その後、救援の為パラシュート降下した1,000名の降下猟兵が加わり5.600名の規模になりますが、4倍近い戦力の連合軍(ノルウェー、イギリス、フランス、ポーランドの24,500名)に北・西・南の3方から攻められ、ナルヴィクから撤退、スウェーデン国境に近いビョルンフィエル(Bjørnfjell)で辛うじて戦線を維持します。

5月27日の戦線
Narvik30.jpg

物資は航空投下に頼るのみ、追い詰められたドイツ軍は降伏かスウェーデンへの逃避か、決断を迫られますが、幸運にも5月10日にドイツがフランスへ侵攻を開始、英仏軍はノルウェー防衛から手を引かざるを得なくなります。
Narvik12.jpg
連合軍は6月8日までに撤退、ドイツ軍は再びナルヴィクを占領します。英仏が離脱し孤軍となったノルウェー軍はドイツ軍に休戦を申し込み、ナルヴィクの戦いは終了しました。

Narvik11.jpg
ナルヴィクの戦いで生き残ったドイツ軍兵士。山岳猟兵の他に海軍歩兵、降下猟兵が写っています。


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それではナルヴィク盾章の細部を見て行きましょう。こちらは銀色の盾にフィールドグレイの当て布から、陸軍・山岳猟兵部隊に授与された盾章となります。

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国家鷲章と"NARVIK"の文字。

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"1940"とエーデルヴァイス、海軍を表す錨、空軍を表すプロペラのレリーフ。

なお欧州のコレクターの調査では、ナルヴィク盾章のバリエーションは6つあるとされています。上記のものはType 3と呼ばれており、スリムな鷲の足爪に小ぶりな"4"が特徴です。(バリエーションについて書かれているフォーラムはこちら
Narvik2.jpg
背面には亜鉛製のバックプレートに4つの爪で固定されています。当て布は二重になっており膠(にかわ)で接着されています。

Narvik24.jpg 
ナルヴィク盾章を佩用する山岳猟兵。

Narvik4.jpg
ナルヴィク盾章を授賞した山岳猟兵部隊を閲兵するエデュアルト・ディートル少将。ディートル少将はナルヴィクの戦いで勝利した功績により、1940年5月9日に騎士鉄十字章を授賞、さらに6月19日には柏葉付き騎士鉄十字章の初授与者となります。

ところでナルヴィク盾章は他の勲章と同様にフェイクが存在しています。典型的なフェイクはType3に似ているということで、オリジナルとフェイクの比較写真を載せたいと思います。

Narvik29.jpg   
まずはNARVIKの文字です。オリジナルはNとAとRが底辺でつながっていますがフェイクは離れています。

Narvik21.jpg
Nのクローズアップ。フェイクは文字の角の部分が厚くなっています。

Narvik22.jpg

数字も角が幅広くなっています。また非常に分かりづらいですが、40の"4"が"0"よりも僅かに低い位置にあります。このタイプは"Small 4"や"Low 4"と呼ばれております。

もちろんフェイク業者もこの点は認識しており、最近では3Dプリンターなどを駆使しミクロン単位で本物そっくりに作ってくるので判別が難しくなってきています。フェイクを避けるのは、できるだけ信頼できる業者やコレクターから購入、そして入手後は"信じる者は救われる”、で忘れてしまいましょう。

最後にナルヴィクの戦いを描いた映画『Narvik - Hitlers First Defeat(仮題)』がノルウェーで制作中とのこと。2020年12月末には公開予定のようです。(映画に関するニュースはこちら

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ナルヴィク湾に佇むノルウェー兵士。炎上しているのはドイツ駆逐艦でしょうか。


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M31水筒 (Feldflasche 31) Part12 極初期型

花粉症とCOVIT-19のお陰で堂々と引き籠りしているエーデルマンです。日本は中国に次いで新型コロナウイルスの感染者が多くなってしまいましたね。街中からマスクが消えて状態で今日もドラッグストアにたくさん人が並んでました。この光景を見て不謹慎?ですが、かつてのたまごっちやガンプラフィーバーを思い出したエーデルマンです。

さて、このブログが始まって10年近く、これまで色んなバリエーションの水筒を取り上げましたが、今回は原点に帰って戦前に作られた極初期タイプのM31水筒(Feldflasche 31)にスポットライトを当てたいと思います。
CTearly01.jpg
こちらのM31水筒は所有する中では最も初期の水筒です。これぞ、「ヴェアマハト」の水筒!という感じですね。

 28681798_487930922_1large.jpg 
タミヤのMMシリーズ「ドイツ歩兵セット」で初めて知ったM31水筒。ドイツ兵を象徴する装備と言えば、私の中ではスチールヘルメット、M36野戦服に半長靴、そして水筒となっています。
35371_p1.jpg 
ちなみにこちらは今月発売されたばかりのドイツ歩兵セット。小休止している兵士のポージングや服のシワの造形が素晴らしいです。(大戦中期)となっていますが、ボックスアートや塗装例は思いっきり大戦初期です。
まぁ、全員がYサスペンダーをしているし、装備自体は中期以降でも使用されたものなので、野戦服の襟とズボンの塗装をフィールドグレーにすればいいだけの話ですが。


さて、水筒に戻りたいと思います。

CTearly3.jpg
水筒を分解したところ。戦前の水筒らしく鉄部はALLアルミニウム製です。

CTearly7-1.jpg
ナス環もアルミ製の削り出しで作られています。このナス環は1942年頃からスチール製に置き換わります。

CTearly10.jpg 
アルミ製のカップ。アルミへの塗装は剥がれやすいのですが、こちらは淵の部分が僅かに剥げているだけでオリジナルの状態をキープしています。カップの塗装は1941年4月23日付の命令で黒からオリーブグリーンに変更されます。
CTearly14-1.jpg
左から36年製(SMM36)、42年製(HRE42)、43年製(HRE43)、43年製(CFL43)、44年製(DMN44)です。カップはHRE43から、ナス環はHRE42からアルミ→スチール製に変わっています。

CTearly2-3.jpg 
ハンドルの基部に"SMM36"の刻印があります。"SMM"はメーカーコードで「Süddeutsche Metallwarenfabrik Mussbach」で1936年に製造されたことを意味します。

CTearly6-1.jpg  
ボトルのキャップ。同じくSMM36の刻印。

CTearly8-1.jpg 
SMM36の刻印はボトル本体にもあります。
CTearly5.jpg 
CTearly12.jpg
革ストラップやフェルトカバーにもSMM36のスタンプが押されています。やっぱりカップ、ボトル本体、キャップ、ストラップ、カバーの刻印やスタンプが揃っているのはいいですね。

CTearly15.jpg  
スナップボタンのクローズアップ。


Earlysoldat0.jpg
タミヤのボックスアートに触発されて初期のドイツ軍歩兵装備を再現してみました。M34野戦服M36ストレートパンツ(ストーングレイ)。M34略帽はベルトに挟んでいます。腰にはストレートスコップ銃剣M30ガスマスク(ショート缶)M31飯盒、そしてM31水筒が装着されています。Yサスペンダーは1939年4月に採用されましたが、全員に行き渡っていない設定です。

Earlysoldat5.jpg 
水筒と飯盒を雑嚢に取り付けた状態です。兵士の食生活をサポートするこの組み合わせは1931年に導入されました。

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脳内の99%をドイツ軍が占めている、そんなアラフィフ親父です。
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