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小火器工具セット(Waffenwerkzeugsatz)

だいぶ暖かくなりましたね。苦しかった花粉症もおさまり、気軽に外出できるようになったエーデルマンです。気が付けば平成もあと10日ほどですね。振り返れば平成元年は二十歳になったばかりでした。当時は携帯もインターネットも無く、個人がブログで情報を発信できるなど夢にも思いませんでした。令和になって、どんな技術が発達するか分かりませんが、変わらずドイツ軍装趣味は続けていきたいと思います。

さて平成最後(ついに言えた!)のアップは小火器用工具セット(Waffenwerkzeugsatz)を紹介します。

1_KWZK.jpg

こちらは小火器=地上部隊が使う火器のうち、歩兵部隊が使用するもの、特に兵士1人で携帯操作できるものを言う (by Wikipedia)の整備や修理に必要な工具をコンパクトにまとめたセットです。

2_KWZK.jpg
外観は、普通の弾薬箱です。

3_KWZK.jpg
弾薬箱の蓋を開けると工具収納ケースが入っています。なお、外から工具セットと分かるように、側面に"Werkzeugkasten"や"Werkzeuge"とステンシル或いは手書きされている弾薬箱もあります。

30_KWZK.jpg
取手を使って、工具収納ケースを引き出します。

4_KWZK.jpg
本体は薄い板金製でコンパクトに折り畳めるようになっています。
5_KWZK.jpg
収納ケースを広げると、様々な工具が収められていることが分かります。


39_KWZK1.jpg
裏面。上下に補強用のリブがあります。蝶番で開閉するようになっています。

それでは、工具を一つずつ見ていきたいと思います。
・・とその前に、
22_KWZK1.jpg 
工具を外した状態がこちら。白いペイントで工具のシルエットが描かれており、使った後に戻す場所が一目瞭然です。

32_KWZK.jpg
まずは向かって右側の工具類から紹介していきます。

■手万力(Handschraubstock)
6_KWZK.jpg 
ねじを締めたりする時に手だけでは対象物を押さえきれない時に使用します。
7_KWZK.jpg 
ハンドルと固定部分には滑り止めのチェッカリングが入っています。対象物を挟んでネジで締め付けます。

■両口スパナ(Doppelschlüssel)
8_KWZK.jpg 
サイズ30/36でMG34やMP40のナットの取り外しに使います。同じものがMG34ガンナーズポーチにも入っています。

■モンキーレンチ(Einstellbare Schlüssel)

10_KWZK2.jpg
現代のモンキーレンチとは形状が違いますね。

11_KWZK2.jpg  
親指のところを押し込むとアゴの間隔を自由に調整できます。銃器メーカーの"MAUSER"の刻印があります。

■ポンチ(Schlag)とねじ回し(Schraubendreher)


12_KWZK3.jpg   
ポンチはねじがバカになった場合、溝を再構築する際に使用します。ねじ回しはKar.98やMG34のネジに合致するサイズとなっています。

■小型プライヤー(Kleine Zange)

14_KWZK3.jpg   
全長11cmで先端が尖っています。ネジなど小さな部品を摘まむ場合に使用します。



33_KWZK.jpg

次に向かって左側の工具類です。

■ノギス(Messschieber)
18_KWZK9.jpg
現代のフォルムとはほとんど一緒です。センチとインチの両方で計測できるようになっています。残念ながら、このノギスは深さを測るデプスバーが欠落しています。

■鉄工やすり(Raspel)

16_KWZK.jpg

各種やすりの刃は平形、半丸形、三角形の形状に単目、複目となっています。

15_KWZK.jpg
ハンドルのサイズは大中小。

17_KWZK.jpg 
やすりの刃とハンドルと結合した状態。ドイツと言えども削り合わせが必要な場合もあったのでしょう。

■金槌(Hammer)
19_KWZK2.jpg

金槌はポンチを叩く場合に使用します(あるいは昭和のテレビのように叩いて機関銃を直すこともあったのかも?)

■プライヤー(Zange)
21_KWZK.jpg 
全長16cmでこちらは先端部分に滑り止めのチェッカリングが入っています。

工具収納ケースの中央には、引き出し付きの収納ボックスがあります。
26_KWZK2.jpg
この収納ボックスはスライドすることで本体と切り離せるようになっています。

43_KWZK.jpg
左側の状態ではロックがかかり、右側のように水平に倒さないと引き出しは開閉できないようになっています。
24_KWZK1.jpg
清掃用のワイヤーブラシやピンポンチ、MG34リアサイト取り外し専用工具などが入っています。
23_KWZK1.jpg
こちらの引き出しに入っているのはVerschlußschraube(ねじ回し)や、MG34 エクストラクター取り外し工具などです。

40_KWZK.jpg
収納ケースの裏側にも収納スペースがあります。(何を収納するか情報が無く、写真の状態が正しいかどうかは不明です)

ところでこちらの工具セットはKleinen(小型)Waffenwerkzeugsatzとも呼ばれていますが、Große(大きな)工具セットも存在しています。

下記は資料本『PROPAGANDA SERIES』の「Vol.1 THE K98k RIFLE」に掲載されている写真ですが、注釈では壁際に置かれている木製の箱が"Grosse(Große) Waffenmeisterkiste fur MG und Handwaffen"となっています。
31_KWZK.jpg
確かにGroße(大型)ですね。ちなみにGroßeがWaffen(武器)を形容すると、重火器となりますが、その後にfur MG und Handwaffenとなっているので、こちらも小火器用になります。

こちらはネットで拾った画像です。
37_KWZK.jpg
箱には"gr.=Große Waffenmeisterwerkzeug für M.G. und Hdw"とスタンプされています。

34_KWZK.jpg
資料本の工具箱と形状は違いますが、大型です。

こちらは中身。
35_KWZK.jpg
パネルには工具の形に合わせて収納スペースがあり、それぞれ番号がふられています。ノギスやプライヤー、ねじ回しはkleinen Waffenwerkzeugsatzと共通しています。

36_KWZK.jpg
左側には拳銃用工具弾、右側にはMG08と刻印された工具が収納されています。

38_KWZK.jpg
大型の万力のほか、小型工具セットに含まれている手万力や金槌があります。

以上、大・小の武器工具セットの紹介を終わります。次回令和第一弾の記事は、戦闘工兵のアイテムをアップする予定です。


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Karl Lindner軍曹の勲記/所有証明書

こんにちはエーデルマンです。今週は桜が満開で花見日和ですが、相変わらずの出不精で家でゴロゴロです。

さて、本日は第14装甲師団第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第1中隊(I/Panzergrenadier-Regiment 103)のUnteroffizier Karl Lindnerの勲記(Urkunde)/所有証明書(Besitzzeugnis)について記事をアップしたいと思います。 (過去mixiにアップした日記の転載です)
※なおUnteroffzierには伍長と軍曹の意味がありますが、この記事では軍曹に統一することにします。
GR103-13-7.jpg
個人的にドキュメントのコンテンツ化は難易度が高く、弊ブログを見ても分かるようにこれまでほとんど手を出さないでいました。しかしながらこの兵士が所属していた部隊の戦歴はかなり興味深く、思い切って記事にする事にしました。(間違いが多々あるかと思いますのが、ぜひともご容赦願います)

残念ながらWehrpassやSoldbuchの様な記録的なドキュメントは付属していない為、勲記にある情報(受章時の所属部隊、階級)から兵士の戦い様を推察していきたいと思います。なお、「こうだったら面白いな」という個人的な願望(妄想)を多分に含んでいますのでご了承願います(笑)

それではまずは第14装甲師団の戦歴について。

pz-14-logo.jpg

1934年10月1日にドレスデンで創設された第4歩兵師団(1939年ポーランド侵攻、1940年フランス侵攻に参加)を母体とし、1940年8月15日に第14装甲師団へ改編。

1941年6月バルバロッサ作戦が始まると南方軍集団の第1装甲配下にてソ連侵攻部隊として従軍。有名なロストフの戦い(1941年11月5日-12月2日)、第二次ハリコフ攻防戦(3月28日〜5月28日)に参加。

GR103-8-1.jpg

1942年6月28日に始まったブラウ作戦ではB軍集団、フリードリヒ・パウルス将軍指揮下の第6軍に編入。ヘルマン・ホト大将麾下第4装甲軍に従属し、南からスターリングラードへ進撃。
1942年7月23にツィムリャンスク、8月10日にはスターリングラードまで130キロのコテリニコヴォに到達。

GR103-7.jpg

さて、ここから少し詳細になります。(スターリングラード攻防戦は個人的に興味があるので・・)

1942年8月23日に第6軍によるスターリングラードへの総攻撃が始まると第14装甲師団は電撃戦によりソ連軍第64軍の防衛線を突破しスターリングラード市の南端に到着。その後も勢いは止まらずバリケード防衛線(高射砲陣地)を撃破し、ルイノクの北方でボルガ河西岸の高地を占領。

 GR103-14.jpg 
10月14日、第14装甲師団の第103および第108装甲擲弾兵連隊はトラクター工場を攻撃しソ連軍第61軍司令官チュイコフ将軍の司令部300メートルまで肉迫。なお、この闘いで第103装甲擲弾兵連隊の一部はヴォルガ川に到達。 (しかしながらこれまでの激戦による消耗は激しく、可動する戦車はわずか19輌となる)

続く10月17日、残った戦車ともに擲弾兵連隊はバリカドイ兵器工場を攻撃。19日までの3日間の戦いで両工場の大部分を占領するも、赤軍兵士の必死の反撃により攻撃は頓挫、膠着状態となる。その後も赤い10月製鉄工場への攻撃にも加わるが同じくソ連軍の激しい抵抗に遭い消耗を重ねる。
GR103-18.jpg 
11月11日 午前6時30分、第14装甲師団を含む7個師団が工場地区に向けて総攻撃を開始。市内の大部分を占領するがドイツ軍の消耗も激しく、日ごとに寒気が強くなるなかで、戦線は再び膠着状態となる。(結局、これが第6軍にとって最後の総攻撃となる)

GR103-26.jpg 
11月22日にソ連軍の大反攻"ウラヌス作戦"が開始され、スターリングラードにいるドイツ軍の包囲網が形成される。ドン軍集団による包囲解除攻撃「冬の嵐作戦」も失敗し、1943年2月2日の第6軍の降伏とともに第14装甲師団は事実上壊滅。

1943年3月フランス西部で残存部隊により第14装甲師団は再編成される。10月に第8軍に編入後、再び東部戦線へ従軍。11月にはドネツク、第8軍は1944年1月にコルスン-チェルカーシィでソ連軍に包囲されるが、多数の死傷者を出しながらも2月には包囲網の突破に成功。
GR103-20.jpg 

1944年4月に第6軍に編入、4月8日-6月6日にかけて行われた第一次ヤッシー=キシニョフ攻防戦に参戦。
その後、再び第8軍に従属後、1944年8月には第18軍の北方軍集団に編入されクールラント橋頭堡の防衛に配置される。9月に"バルト海攻勢"が始まると北方軍集団は中央軍集団と分断され、クールラントは包囲される。(クールラント・ポケット)師団にとってこれで3度目の包囲戦となる。一部は海上脱出に成功するが多くは同地にて降伏、終戦を迎える。

このように第14装甲師団はスターリングラード、コルスン-チェルカーシィ、クールラントと3度も包囲戦を経験した非常に稀有な師団である事が分かります。

それでは、師団戦史に照らし合わせて勲記・所有証明書からKarl Lindner軍曹の戦いを順番に見ていきたいと思います。

1941/42年東部戦線冬季戦記章:WINTERSCHLACHT IM OSTEN 1941/42

GR103-29.jpg

勲記:URKUNDE
GR103-3_201904060952538e2.jpg IM NAMEN DES FÜHRERS 
UND
OBERSTEN BEFEHLSHABERS
DER WEHRMACHT

(総統兼国防軍最高司令官の名において)
IST DEM

Gefreiten Karl Lindner  (カール・リンドナー上等兵)

AM
23.September 1942 (1942年9月23日)

DIE MEDAILLE 
WINTERSCHLACHT IM OSTEN
1941/42
(1941/42年東部戦線冬季戦記章)
(OSTMEDAILLE)
(東部戦線従軍記章)

VERLIEHEN WORDEN. 
(ここに授与する)

FÜR DIE RICHTIGREIT:(代理署名)

Obftlt. u. RegimentsKommandeur
(中佐 連隊長)

Ottomar Hansen中佐による署名

GR-9.jpg

授章には1941年11月15日から1942年4月15日まで間、東部戦線において下記の条件を満たす必要がありました。

・14日間戦闘に参加した者(空軍兵士は30回の出撃)
・60日間非戦闘活動に従事した者
・戦闘で負傷した者
・戦死した者
・戦傷章に値する程度の凍傷もしくは冬季の風土による負傷をした者

この後に紹介する戦傷章の勲記には負傷認定日が1942年8月となっている為、Lindner軍曹(当時は上等兵)が該当するのは、上2つのどちらかと考えられます。


戦傷章(黒):VERWUNDETENABZEICHEN(Schwarz)

GR103-30.jpg     
 
所有証明書:BESITZZEUGNIS
GR103-1_201904060952506e8.jpg
BESITZZEUGNIS (所有証明書)

DEM

(NAME,DIENSTGRAD)
(氏名,階級)
Gefr. Karl Lindner  (カール・リンドナー上等兵)

(TRUPPENTEIL, DIESTSTELLE)
(所属部隊)
Stab I. / Panzer-Grenadier-Regiment 103
(第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第1本隊所属)

IST AUF GRUND 
(授章理由)
SEINER AM 4.8.1942 ERLITTENEN MALIGEN
EIN MALIGEN VERWUNDUNG-BESCHÄDIGUNG 
(1942年8月4日に被った1回の負傷もしくは損傷)

DAS
VERWUNDETENABZEICHEN 
in
"Schwarz"(戦傷章 黒)

VERLIEHEN
 WORDEN. (ここに授与する)

O.U.  ,DEN  20.7.1943.
(1943年7月20日 *O.U.=Ortsunterkunft 宿営地にて)

(UNTERSCHRIFT)
(署名)
gez. Hoppe
(*gez=gezeichnet 署名省略)

(DIENSTGRAD UND
 DIENSTSTELLE)(階級と職務)
Hauptmann u. Btl.-Kommandeur
(大尉 大隊長)

F. d. R.=Für die Richtigkeit(代理署名)
Leutnant u. Adjutant (少尉 副官)

負傷認定日が1942年8月4日となっており、この時期は部隊がスターリングラードの南部、ドン川東側に部隊は展開しており、チュイコフ麾下の第51軍との交戦で負ったものと思われます。
授章が一年近く後、所属が本部(Stab)付きなので、恐らくKarl Lindner軍曹は後方へ輸送される程の重傷だったのでしょう。しかしながらスターリングラードでの師団の命運を考えれば、この時負傷したのは不幸中の幸いと言えます。

GR103-10.jpg 


戦傷章(銀):VERWUNDETENABZEICHEN(Silber)

GR103-23.jpg  

所有証明書:BESITZZEUGNIS
GR103-2_20190406095252417.jpgBESITZZEUGNIS(所有証明書)

DEM

(NAME,DIENSTGRAD)
(氏名,階級)
Unteroffizier. Karl Lindner (カール・リンドナー上等兵)

(TRUPPENTEIL, DIESTSTELLE)
(所属部隊)
2. / Panzer-Grenadier-Regiment 103
(第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第2中隊)

IST AUF GRUND 
(授章理由)
SEINER AM  21.7.1942, 7.8.42 u 5.6.44 ERLITTENEN 
3 MALIGEN VERWUNDUNG-BESCHÄDIGUNG 
(1942年7月21日、同年8月7日、1944年6月5日に被った3回の負傷もしくは損傷)

DAS
VERWUNDETENABZEICHEN 
IN "Silber"
(戦傷章 銀)
VERLIEHEN WORDEN(ここに授与する)

 
Btl.-Gef.-Std. ,DEN 10.6.1944

(1944年6月10日大隊司令部にて)

(UNTERSCHRIFT)
(署名)

(DIENSTGRAD UND
 DIENSTSTELLE)
(階級と職務)
Hauptmann und. Btl.-Führer I./Pz.Gren.Rgt.103
(大尉 第103装甲擲弾兵連隊第1大隊長)

※Btl.-KommandeurとBtl.-Führerをどちらも大隊長と訳していますが、Kommandeurは正規、Führerは代理(試用)という位置づけです。なお、規定では大隊長は左官(少佐)が務めることになっていましたが、戦争後期になると大尉が務める例がよく見られます。
戦傷章(銀)の授章条件は、前線での負傷が3回もしくは4回、また一回であっても手肢を切断するような負傷、片目の視力あるいは聴力を失うことでした。
負傷認定日には、1942年7月21日、1942年8月7日、1944年6月5日となっています。
1944年6月5日の負傷は第一次ヤッシー=キシニョフ攻勢で受けたものと思われますが、授章日が5日後なので軽傷だったのかも知れません。

一つ疑問なのが、2回目の負傷認定日が戦傷章(黒)の認定日(8月4日)の3日後になっている点です。スターリングラードで師団記録が消失した為、後方の病院の受入記録が記載されたのかもしれません。 なお、授章日1944年6月10日時点で階級が軍曹(Unteroffizier)に昇進していることが分かります。

白兵戦章(銅):NAHKAMPFSPANGE(I. Stufe)

CCC.jpg 

所有証明書:BESITZZEUGNIS
GR103-4_20190406095255812.jpgBesitzzeugnis (所有証明書)

(Dienstgrad)
(階級)
Dem Unteroffizier.(軍曹)
 
(Vor-und Familienname)(氏名)
Karl Lindner  (カール・リンドナー)

(Truppenteil)
(所属部隊)
I. / Pz.Gren.Rgt 103
(第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第1中隊)

Verleihe ich für tapfere Teilnahme
an 15 Nahkampftagen
(勇敢な15日間における近接戦闘参加に対し)

die 1.Stufe der
Nahkampfspange

(白兵戦章 銅)

Rgt.-Gef.-St., den 28.12.1944.
(1944年12月28日連隊司令部にて)

Oberst u. Rgt.-Kommandeur
(大佐 連隊長)


Walter Palm大佐による署名 。1945年3月20日に最後の第14装甲師団長として就任。

※こちらの所有証明書はゼラチン複写版=ヘクトグラフ(Hektograph)で作らています。印刷された証明書が手元にない場合、仮発行用とされました。
白兵戦章は近接攻撃を行った兵士に与えられる戦功章です。授章条件は参加した日数で金章(III. Stufe)が50日、銀章(II. Stufe)が30日、銅章(I. Stufe)が15日となっています。
授章日が1944年12月28日となっており、それ以前に行われた戦闘で15日間の近接攻撃に参加したことになります。
クールラントでの大規模な戦闘は6回で12月28日以前は、1回目と2回目、3回目の前半が該当します。

1回目:1944年10月27日−1944年11月7日
2回目:1944年11月20日−1944年11月30日
3回目:1944年12月23日−1944年12月31日
4回目:1945年1月23日−1945年2月3日
5回目:1945年2月12日−1945年2月19日
6回目:1945年3月17日−1945年4月4日

GR103-6.jpg
クールラント包囲戦の前線マップ。1944年と1945年の前線の間にあるPriekule (独:Preekuln)に第14装甲師団が配置された記録があります。

Karl Lindner軍曹についての記録はここまでで、無事に終戦まで生き延びたのかどうかは不明です。
以前、こちらで記事にしたとおり、空・海路で脱出した一部の兵士を除く約135,000名の兵がソ連軍に降伏、捕虜となりました。降伏の際、ロシア兵の報復を恐れ、カフタイトルなどの戦功章やその勲記、授章履歴が書き込まれたSoldbuchなどは破棄したと考えます。この勲記も授章後に家族へ宛てた手紙に同封された可能性が高いです。
60436_2019040609524636b.jpg 
クールラントで捕虜になった兵士たちはシベリアの強制収容所へ送られ、故郷に生きて戻れたのはごく僅かでした。


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立入禁止区域表示旗セット(Satz Spürfähnchen)

花粉シーズン真っ盛りですが皆さんお平気ですか?今年は昨年より飛散量が少ないようですが、私の花粉による症状は例年と変わらず、鼻水くしゃみ、特に目のかゆみがひどいです。鼻への影響はマスクで多少は防げても、目はむき出しになるので外出がとても辛く引きこもり状態です。(まぁ、基本休日は引きこもり体質なので花粉は言い訳ですが・・・)

さて、今回はガス汚染地域をマーキングする立入禁止区域表示旗セット(Satz Spürfähnchen)を紹介したいと思います。
 gaswarningflag0-3.jpg  
まず、毒ガスには即効性と遅効性のものがあるようです。(あまり知りたい知識ではありませんね)
即効性ガス:その名の通り、即時の殺傷を目的とすることから殺傷力が強い一方で自然分解が早く、最前線でピンポイント攻撃に使用される。(例:サリン、VXガス)

遅延性ガス:殺傷力は即効性に劣るが、分解に時間がかかる為、敵国の都市や農地などへの無差別攻撃に使用することで経済的・生産的な妨害といった目的で使用される。(例:マスタードガス)

なお、接触して数十年後に被害が出る超遅延ガスというものもあり、とにかく汚染された地域には立ち入らないことが重要です。よって、汚染された地域を立ち入り禁止にする為には、誰が見ても“危険”とわかるような目印を付ける必要があります。
gaswarningflag3.jpg
そこで用意されたのがこちらの表示旗(Spürfähnchen)です。長さ50cmのスチール製ポールで赤い防錆塗装がされています。なおガス注意旗(Gasspürfähnchen)という呼び方もあるようです。
gaswarningflag4-1.jpg
海賊のシンボルと同じドクロマークが、底辺8.5cm、等辺11.5cmの三角形の黄色地の旗に描かれています。ポールの一番上に三角旗がすっぽ抜けない為の押え金具、その下には長さを延長できるよう、ジョイント用のループ金具が二つあります。
gaswarningflag5.jpg
背の高い草地などでは視認性を高める為、このように2本以上繋ぎ足しました。

なおこのフラッグ、第二次世界大戦においては枢軸・連合軍ともに毒ガス攻撃を行わなかった為、本来とは違う目的で使用されました。
10149206_725847184133924_1218162946_n.jpg 
地雷を処理する兵士(捕虜?)の横に表示旗が立てられています。

thumb.jpg 
このブログでもレビューした『ヒトラーの忘れもの』のワンシーン。

コンテンツ作成にあたり、オランダの軍装コレクターTom氏から教本コピーと当時の訓練風景の写真の掲載の許可をいただいたので紹介したいと思います。

satz_spur_01.jpg
(Courtesy of http://www.mp44.nl/)
1939年1月12日発行の『Vorläufige Unmeisung für Die Handhabung der Gasplane, der Gasſpür= und Entgiftungsmittel der Truppe』にはSatz Spürfähnchenは、a Tragetasche(収納ポーチ)、b Trassenband(マーキングテープ)、c Spürfähnchen(表示旗)の3点セットであることが記載されています。

gasspur_01.jpg
gasspur_05.jpg
gasspur_02.jpg
(Courtesy of http://www.mp44.nl/)
一番上の写真の兵士の肩章の兵科色と左端の兵士の専門職章から工兵部隊と思われます。これらの写真から表示旗の本来の使用目的が毒ガス汚染地域のマーキング用だったことが分かります。

続いて収納ポーチ(Tragetasche)の紹介です。

gaswarningflag2-2.jpg
上記の教本に掲載されているものと同じコットン製の収納ポーチです。表示旗を20本収納することができます。ポールの先端が当たる部分は補強されています。
gaswarningflag11-1.jpg  
フラップを開けたところ。メーカーコード“bpu”のスタンプがあります。

gaswarningflag1-2.jpg
こちらは後期のタイプで圧縮した紙で作られています。
gaswarningflag6-1.jpg 
フラップを開いたところ。メーカー名とWaAアムトのスタンプが押されていますが難読です。

ribbon_3.jpg
(Courtesy of http://www.mp44.nl/)
ポケットには汚染地域を囲う為のマーキングテープ(Trassenband)を収納することになっていました。こちらの写真もTom氏からお借りしています。
マーキングテープの長さは約2.3kmとのことです。表示旗20本を100m毎に設置するには妥当な長さと言えます。


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M31雑嚢 (Brotbeutel 31) 極初期型

どうも、エーデルマンです。3連休の最終日いかがお過ごしでしょうか?私は雪降る寒さと例年より早く始まった花粉症により、家でダラダラと過ごしています。

さて、暇にまかせて所有するドイツ軍兵士に支給された"パン袋"ことM31雑嚢(Brotbeutel 31)を並べてみました。上段左から極初期型、同、初期型、中期型、下段左から後期型、M44雑嚢、末期型、熱帯型となります。
breadbag0-2.jpg 
本日アップするのは左端の極初期型です。雑嚢については皆さん良くご存知なので今更ですが、雑嚢について書くのはこれがラストになると思うので最後までお付き合いいただければ幸いです。
Earlsy BB1-2
青みがかったグレイが特徴の極初期のタイプで、1930年代の製造と思われます。
B-Bag_04.jpg 

上記は以前紹介した極初期型と初期型の雑嚢です。同じ作りですが色以外にベルトフック金具やDリング、ボタンの材質が違います。(違いについての記事はこちら

Earlsy BB2-1

若干使用感はありますが、ミントに近い状態です。

Earlsy BB5-1
ベルトループの補強革もダークグリーンで塗装されています。

Earlsy BB4-1 
水筒や飯盒を括り付ける革ループもダークグリーンで塗装されています。他にもこのような色に塗られた革製品があったか不明ですが、ひょっとしたらカモフラージュ的な要素があったのかも知れません。
Earlsy BB3-1 
上蓋を開いたところ。

Earlsy BB6
はっきりとは読めませんが、恐らく上段の文字は"Ver. Lederwarenfabrik"、下段は"München"と思われます。→知人で軍装コレクターのTom氏(http://www.mp44.nl/)によれば『Ver. Lederwarenfabriken, Eugen Huber München』とのことです。

Earlsy BB15
こちらは極初期型雑嚢にマッチする、 1935年製のストラップ
Earlsy BB14 

急に話題が変わって申し訳ないですが、ふと2年前に訪れたレマゲン鉄橋(正式名は『ルーデンドルフ橋』)を思い出しました。
Earlsy BB9 
ライン川に今も残る橋桁は平和記念館になっており、当時の写真や橋の設計図など資料が展示されています。

Earlsy BB11 
在りし日の橋の写真が展示されています。ルーデンドルフ橋は第一次大戦中に兵士や物資を西部戦線に運ぶ為に作られたそうです。

Earlsy BB12 
 
記念館の最上階にはライン河畔に作られたドイツ兵捕虜収容所について紹介するコーナーがありました。
Earlsy BB13 
"ルール・ポケット"で生き残った32万人のドイツ兵は「ライン牧草地キャンプ(Rheinwiesenlager)」と呼ばれる鉄条網で囲っただけの牧草地に詰め込まれ、バラックはおろかテントも無い生活を強いられました。

Earlsy BB10 
パウル・カレル著『捕虜』によると、ある収容所の捕虜は5万6000人で、そのうち0.6%の3053人(ドイツ側の統計では4537人)が餓死またはチフスや赤痢などの病気で死亡したそうです。この比率はソ連軍の管轄する収容所の死亡率(25%~90%)からすると少ないように見えますが、ドイツ降伏後3か月という期間で考えると異常な高さと書かれています。

Earlsy BB8
展示品の中に極初期の雑嚢を発見しました。本当に当時の捕虜が所有していたものかは不明ですが、自宅のコレクションとは違い、このような展示で見る軍装品に対して特別な"気”を感じるのは気のせいでしょうか・・・


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ワイヤーカッター(Drahtschere)

こんにちはエーデルマンです。かなり遅くなってしまいましたが、2019年が明けて初めてのアップとなりますので、あけましておめでとうございます, 今年もどうぞ宜しくお願いします!!

年初にあたり、目標を3つ立てたので公表したいと思います。

一つ目は「家族でドイツ旅行すること」
これは、数年前から計画しているのですが、今年こそ実行したいと思っています。行先はもちろんベルリンです。
二つ目は「工兵用装備をコンプさせること」
こればっかりは運もあるので、欲しいアイテムをできるとは限りませんが、まずは目指すことが大事なので。
最後は「東部戦線的泥沼日記を英語化すること」
本ブログには日本以外からもアクセスがあるのですが、やはり文章が日本語だと滞在時間が短いんですね。まぁ、訳すほどのたいした内容では無いし、Google翻訳でもいいっちゃいいんですが。。。
 
さて、さっそく二つ目の目標達成に向けて本日はワイヤーカッター(Drahtschere)と収納ポーチ(Tasche für Drahtschere)をアップしたいと思います。 


Drahtschere0.jpg
以前アップした大型ワイヤーカッター(Große Drahtschere)と比べて小さいですが、一般的には大型カッターに分類されます。

Drahtschere12.jpg
大型ワイヤーカッターとの比較。全長は半分程度です。

Drahtschere17.jpg
ワイヤーカッターで鉄条網を切断する工兵。大型ワイヤーカッターは車載用、携行用はこちらがメインであったと思います。

Drahtschere2-3.jpg  
全長38.5cm。現在のワイヤーカッターではあまり見ない形で、カッターの刃が横向きなっています。
こうして見ると、なんとなく鳥のくちばしに見えますね。

Drahtschere15.jpg

個体差がありますがハンドルが最大80°開きます。上のカッター刃が3.7cm、下の刃が2.8cmです。

Drahtschere19.jpg 
ハンドル部分のクローズアップ。ハンドルの本体は樹脂で固めた紙製で、端部のキャップはベークライト製です。

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刃が下斜めについている為、ワイヤーをホールドしやすい構造になっています。

Drahtschere5.jpg
メーカー刻印。ヴァッヘンアムトやメーカーコード、年号の刻印がある個体もあります。
Drahtschere6-2.jpg 
ワイヤーカッターには専用の収納ポーチ(Tasche für Drahtschere) が用意されています。素材は本革製か圧縮紙を使用した人工皮革で頑丈に作られています。
Drahtschere10.jpg

こちらはハンドルがすっぽりと収まるタイプですが、ヘッド部分のみ収納するポーチも存在しています。

Drahtschere8.jpg 
上蓋の裏側にヴァッヘンアムトの刻印があります。

tumblr_n5hgu3iFyW1r0ntwbo1_500.jpg
ワイヤーカッターは収納ポーチをウエストベルトに吊り下げて携行します。MP40を支給されていることから兵士は下士官ということが分かりますが、ワイヤーカッターは分隊長(Gruppenführer)の標準装備でもありました。それにしても手前の兵士の戦闘パックが気になります。

ワイヤーカッターは工兵部隊専用装備では無く、陣地攻略作戦において広く様々な兵科で使用されました。

Drahtschere14-1.jpg
こちらは演習後の分隊を撮影した写真で、前列右端の上等兵(機関銃助手)の肩章のパイピングが明らかに白色なので歩兵科のようですが、その他の兵士のパイピングが黒色にも見えるのではっきりしたことは不明です。収納ポーチが無い場合の携帯方法が分かりますね。
機銃手(前列左端)の右隣の兵卒(Schütze)が一番階級が下なのに本来分隊長に支給されるMP40や双眼鏡を持っていたり、後列左から二番目の兵士が帝政時代のヘルメットを被っているのが面白いですね。

下っ端の兵卒だと思った兵士ですが、ちゃんと見ると襟と肩章にトレッセがあるようです。
Bundesarchiv_Bild_101I-133-0703-02,_Polen,_Trupp_deutscher_Infanterie_im_Winter
別の角度から撮った写真を入手。確かにトレッセが確認できました!すみません、彼がこの分隊の指揮官でした。(STEINERさん、ハンドルの材質と併せて、ご指摘ありがとうございました!)

Drahtschere18.jpg
通常、降下猟兵が降下時に携行できるは拳銃1挺と手榴弾、空挺ナイフ(Fallmesser)程度で、ワイヤーカッターはライフルなどの武器と一緒にコンテナに収納され投下されたようなので、こちらは降下後の訓練風景かも知れません。


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ライカIIIc型 (Leica Model IIIc)

皆さんこんにちは。2018年も残すところあと1日ですね。平成最後の年末年始は近所の神社に初詣する以外に予定は無く、自宅でまったりと往年の戦争映画でも見ながら年越ししたいと思います。

2018年最後の記事はライカ(Leica)の紹介です。

LeicaIIIc.jpg 
以前このブログでAgfaの折り畳み式カメラを紹介しましたが、その時からいつかは35mmカメラの元祖であるライカを記事にしたいと思っていました。
ライカについての詳しい説明はWikpediaやライカファンのサイトに譲るとして、ライカは元々はブランド名で(エルンスト)ライツ社のカメラ(Leitz Camera )という意味ということだけ書かせて下さい。(1988年にライカは会社名になります)

まず戦前・戦中に生産されたライカについて本やネットで調べたところ、バルナックというタイプのIIIa型・IIIb型・IIIc型が該当するようで、その中には軍用モデルが存在しているということを知りました。
(『バルナック』は旧型のライカに付けられた呼び名で、ライツ社の技術者でありライカの生みの親であるオスカー・バルナックにちなんで名付けられました)

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正規に軍に支給された個体には、本体に特別な刻印があり、空軍支給品には"Luftwaffen-Eigentum"、海軍支給品にはMもしくはMFに3桁数字(例えば“MF629”や“M106”)、そして陸軍の場合は“Heer-Eigentum”あるいは単純に“Heer”、“W.H.”(Wehrmacht Heerの省略形)の文字が記されています。

IIIc_35.jpg  
しかしながら支給品の多くは戦時に消耗され、また戦後にナチスドイツを象徴する刻印は削り取られてしまった為、残存数は極めて少く、めったに市場に出回りません。よってオークションに出ても、とても手が出せない価格で落札されてしまいます。

なおカメラの中古市場は軍装品と違い価格が“見える化”されており、こちらのサイトではメーカー・モデル・状態別に市場価格のトレンドが分るようになっています。

IIIc_6.jpg  
こちらは“W.H.”の刻印のあるIIIc型の陸軍支給モデルの市場価格ですが、10年間で倍近い価格になっています。※画像をクリックするとサイトに飛びます。

しかしながら、このブログで紹介した他のアイテム同様、支給品の刻印が無い=軍用では無いとは必ずしも言えません。国防軍の戦線の拡大と共に増え続ける需要を満たす為、市販品を兵士に支給することも多かったはずです。特に市販品と軍用で仕様の違いが無く、かつ大量生産できない製品はその傾向が強かったと思います。

IIIc_38.jpg 
よって正規な支給品を示す刻印が無くでも、戦前・戦中生産のライカであれば軍が使用した可能性は高まります。さらにIIIシリーズのうち1940年に生産が開始されたIIIc型で“段付き”と呼ばれるタイプは戦中モデル(英語でwartime Leica)とされ、年代的にも多くのものが戦場で使用されたようです。また真偽不明ですが、1942年9月以降に生産されたIIIc型は市場に出回らず、全て軍に買い占められたという説もあります。

istruzioni.png 

なお、現在までライカのカメラには通し番号がつけられており「何型のNo.何は何年にどこ向けで出荷された」という履歴が社内で記録されていました。

IIIc_8.jpgIIIc_9.jpg
こちらはライカの製造年度表。※こちらからPDFをダウンロードできます。
戦争中はもちろん、戦後もしばらくは門外不出でしたが、現在は公表されています。

このリストによればIIIc型(製造番号360101~397650)は1940年から1946年の間に生産されました。欠番、戦後生産品(製造番号391753以降)を除くと戦中の生産数は約31,000台となります。

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エルンスト・ライツ社は特別な製造番号(キリ番やゾロ目)のライカを科学者や探検家、政治家、写真家に贈呈したのは有名な話で、軍人ではエルヴィン・ロンメル将軍が製造番号37,500のライカIIIc型を1943年2月に贈られています。
 
IIIc_20-1.jpg  

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IIIc型はバリエーションが多く、本体の色、シャッター幕の色、耐寒仕様やレリーズボタンの形状やスローシャッターダイヤルのストッパーの有無など組み合わせで12種類もあるとか。まさにバリエーション地獄・・・

薀蓄はここまでにして、IIIc型の細部を見ていきたいと思います。

IIIc_44.jpg 
こちらのライカは1943年製のIIIc型で、一般に『ライカIIIcKグレー』と呼ばれるモデルです。カメラ本体には支給品を示す刻印がありませんが、レンズは陸軍支給品という組み合わせです。

<外観>
IIIc_11.jpg
本体色はドイツ軍ファンにはお馴染みのパンツァーグラウです。バルナックライカと言えばクローム仕上げが一般的ですが、戦時下の物資不足でクロームメッキの入手が難しくなった為、一時的にグレーの焼き付け塗装に変更されました。あくまで私の想像ですが国防軍に大量に納品することを条件に、統一色であったパンツァーグラウの塗料を軍部から特別に融通してもらったのかも知れません。
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横135mm、高さ68mm、奥行き34mmで野戦服の胸ポケットにすっぽりと収まるサイズです。戦争で職人が不足する中、以前のモデルまで板金製だった本体を、加工しやすく再組み立て時の精度を出しやすいアルミ合金ダイキャストに変えた為、15gほど軽くなった一方で幅2.8mm、高さが2mm大きくなりました。


IIIc_51.jpg   

レンズは沈胴式で、撮影時にレンズを引き出して使うタイプです。レンズを本体に収納することでコンパクトになり、衝撃による破損から守ります。現在のコンパクトカメラの源流とも言えます。

<軍艦部>

IIIc_19.jpg 
Leicaのロゴ、D.R.P=ドイツ帝国特許 (Deutsches Reichs Patent)とライツ社の社名"Ernst Leitz Wetzlar"が刻印されています。製造番号390173は上記の表では、1943-1946年の間に作られたことになりますが、比較的若い数字なので1943年に製造されたと思います。

製造番号の右側の"K"は Kugellager(ボールベアリング)の頭文字で、シャッター軸にボールベアリングが使用されたモデルであることを表しています。寒冷地や高高度の低温下でもシャッター軸がスムーズに動くよう、通常モデルよりもボールベアリングが多く使用されています。Kモデルのほとんどが軍に供給されたと言われていますが、東部戦線など厳しい環境下にいる部隊や空軍への支給を考えれば当然かも知れません。

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シャッター幕には"K"のスタンプが押されています。シャッター幕は消耗品ですが、オリジナル性を保つ為、コレクターは敢えてシャッター幕を交換しません。

IIIc_17-1.jpg  
前から向かって左側のボタン群。レリーズボタンの前にある巻き戻しリリースレバーの位置がフィルムカウンターより一段高くなっているところから、“段付き”と言われる所以です。
IIIc_18-1.jpg 
巻き戻しノブの底部にある視度調整レバーも基部より一段高くなっていますが、こちらは戦後モデルも同じです。段付き有無の比較についてはLeica Repair Serviceさんのサイトを紹介させていただきます。
 
<後部>
IIIc_16-1.jpg  
グッタペルカ(滑り止めのラバー)も綺麗に残っています。この時代のライカはグッタペルカがボロボロのものが多く、このカメラが大事に扱われてきたことが判ります。

IIIc_21.jpg 
接眼窓のクローズアップ。左側がレンジファインダーと右側ビューファインダーです。レンジファインダーで測距し、ビューファインダーで画角(フレーム)を決めます。

<マガジン部>
IIIc_22-1.jpg  

底部の蓋を外してパトローネ(フィルム)をマガジンに装填します。右に開閉ノブ、左には三脚用のネジ穴があります。

<マウント・レンズ>

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レンズマウントは、ライカLマウントと呼ばれるねじ込み方式です。構造がシンプルなので軽量化に一役買っています。

IIIc_30-3.jpg   
レンズはライツ社純正のエルマー5cm(50mm) f3.5です。製造番号591274は1942年製です。バルナックライカの標準レンズとして戦前・戦後に大量に作られた為、比較的安価(といっても3万円以上・・・)で入手できます。いくつかバリエーションがありカール・ツァイスに吸収合併される前のゲルツ社の硝子を使用した「旧エルマー」や、被写界深度目盛りが赤に塗られている「赤エルマー」は希少な為、高額で取引されています。

IIIc_31.jpg 
このレンズには陸軍支給品を表す"W.H."の刻印があります。カメラ本体にも同じW.H.の刻印があれば最高なのですが・・・しかしながら、軍用レンズが付属しているということで、ドイツ軍で使われた可能性がさらに高まったような気がします。(もちろん後付の可能性も大ですが)

<ケース>

IIIc_39.jpg   
ケースは本革製でエルマーレンズを装着したまま収納できます。Leicaのロゴがカッコいいですね。「ライカ1台が土地付きの一軒家に相当する」と言われた頃は、ケースだけ購入して首からぶら下げて街を歩くことが流行ったとか。

IIIc_43.jpg     
蓋はスナップボタンで留められるようになっています。 写真に写っていませんが、底にはE.LEITZ WETZLARのマークとGermanyの文字が刻印されています。

IIIc_32.jpg 
内貼りはベルベットでカメラを保護します。ケースを装着したまま、撮影ができることから"速写ケース"と呼ばれてます。
速写ケースには空軍専用モデルが存在しており、ブルーグレイ塗装で本体と同じ"Luftwaffen-Eigentum"が底に刻印されています。
IIIc_34.jpg 
軍に納品されたカメラのほとんどは、宣伝中隊(Propagandakompanie, 通称PK)に配布され、隊員によって撮影された写真は「Signal」や「Die Wehrmacht」といった写真雑誌に掲載されました。

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終戦までに200万枚以上が宣伝中隊によって撮影され、Signalは250万部が発行されました。これらの雑誌の目的は国内外に国力を誇示するプロパガンダだった為、軍事機密である兵器も積極的に撮影・掲載することが許可されていました。今日においてドイツ軍ファンが多いのは、兵器や装備のカッコよさに加え、一次資料である写真が豊富に存在していることも関係していると思います。

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以上、カメラ趣味は奥が深く、その中でも"カメラの王様"ライカについて書くのは時間と勇気が要りました。間違った理解があるかも知れませんが、ご容赦いただけると幸いです。


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M44雑嚢 (Brotbeutel 44) 初期型

こんにちは、エーデルマンです。だいぶん寒くなってきましたね。早くも街中にはクリスマスツリーが飾られて一気にほんわかムードになってきました。今年もあと一ヶ月と少し、風邪をひかないよう頑張っていきたいと思います。
さて、本日はタイトルの通り1944年に採用されたブロートボイテル(パン袋)「M44雑嚢」についての考察したいと思います。

breadbag2-1.jpg 
なおM44雑嚢については、過去に2度ほど記事にしています。 

おさらいですが、M44雑嚢と一般的なM31雑嚢との違いは、M44には小銃用のクリーニングキットを収納するポケットが付いていることです。
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またこの雑嚢は、末期に採用されたとあって省力化されており、ウエストベルトに通すループのボタンが廃止されウエストベルトを装着した状態では外すことができなくなっています。また中央のフックも廃止され、同じくループ化しています。
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breadbag12.jpg 
実はこの末期に作られた雑嚢については個人的には少々モヤモヤ感がありました。

なぜなら、クリーニングキットなど野戦服のポケットや雑嚢にそのまま入れておけば良いものの、わざわざ専用のポケットを付ける手間と、ウエストベルト取り付け部の省力化がどうも不釣り合いだったからです。

同じくブログで初期タイプに兵士が自分でポケットを取り付けたと思われる雑嚢を紹介しましたが、目的を果たすなら、このようなシンプルなポケットで良いわけです。
B-Bag03.jpg
上蓋用のストラップが飛び出し防止も兼ねており、わざわざ専用のストラップを取り付ける必要ありません。

M44-3-6.jpg    
こちらはM44雑嚢のポケットのクローズアップですが、素人目にも相当な技術と工数がかかっていることが判ります。

最末期”タイプなど、まさにカオスです。 ここまで省力化(というか裁縫技術が無さすぎ・・・)されているのに、ポケットは綺麗に縫い付けされています。
breadbag4-1.jpg  
モヤモヤしていたところ、一つの仮説が浮かび上がりました。 上蓋とモノを入れる袋部分、ループは別パーツになっており、パーツの製造と最後の縫い合わせは別々の時期だったのではないでしょうか?

もう一度最末期タイプの写真を見ると材質は別になっています。

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この疑問に答える雑嚢がついに見つかりました。それが、こちらの雑嚢です。

BBM_1-1.jpg BBM_2.jpg 
上蓋部分やループは一般的な中期の雑嚢と同じです。この雑嚢は比較的余裕があった時期に作られたようですが、末期の雑嚢と同じくポケットが付いています。
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あくまで推測ですが、現在残存しているM44雑嚢の多くは戦局が悪化した時の最終工程で作られた、ということは無いでしょうか?

最後にポケット付きの雑嚢を並べてみました。

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まぁ、どうでも良い内容ですが、ヒマに任せて日記にしてみました。


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