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Karl Lindner軍曹 (第14装甲師団第103装甲擲弾兵連隊)

こんにちはエーデルマンです。今週は桜が満開で花見日和ですが、相変わらずの出不精で家でゴロゴロです。

さて、本日は第14装甲師団第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第1中隊(I/Panzergrenadier-Regiment 103)のUnteroffizier Karl Lindnerの勲記(Urkunde)/所有証明書(Besitzzeugnis)について記事をアップしたいと思います。 (過去mixiにアップした日記の転載です)
※なおUnteroffzierには伍長と軍曹の意味がありますが、この記事では軍曹に統一することにします。
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個人的にドキュメントのコンテンツ化は難易度が高く、弊ブログを見ても分かるようにこれまでほとんど手を出さないでいました。しかしながらこの兵士が所属していた部隊の戦歴はかなり興味深く、思い切って記事にする事にしました。(間違いが多々あるかと思いますのが、ぜひともご容赦願います)

残念ながらWehrpassやSoldbuchの様な記録的なドキュメントは付属していない為、勲記にある情報(受章時の所属部隊、階級)から兵士の戦い様を推察していきたいと思います。なお、「こうだったら面白いな」という個人的な願望(妄想)を多分に含んでいますのでご了承願います(笑)

それではまずは第14装甲師団の戦歴について。

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1934年10月1日にドレスデンで創設された第4歩兵師団(1939年ポーランド侵攻、1940年フランス侵攻に参加)を母体とし、1940年8月15日に第14装甲師団へ改編。

1941年6月バルバロッサ作戦が始まると南方軍集団の第1装甲配下にてソ連侵攻部隊として従軍。有名なロストフの戦い(1941年11月5日-12月2日)、第二次ハリコフ攻防戦(3月28日〜5月28日)に参加。

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1942年6月28日に始まったブラウ作戦ではB軍集団、フリードリヒ・パウルス将軍指揮下の第6軍に編入。ヘルマン・ホト大将麾下第4装甲軍に従属し、南からスターリングラードへ進撃。
1942年7月23にツィムリャンスク、8月10日にはスターリングラードまで130キロのコテリニコヴォに到達。

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さて、ここから少し詳細になります。(スターリングラード攻防戦は個人的に興味があるので・・)

1942年8月23日に第6軍によるスターリングラードへの総攻撃が始まると第14装甲師団は電撃戦によりソ連軍第64軍の防衛線を突破しスターリングラード市の南端に到着。その後も勢いは止まらずバリケード防衛線(高射砲陣地)を撃破し、ルイノクの北方でボルガ河西岸の高地を占領。

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10月14日、第14装甲師団の第103および第108装甲擲弾兵連隊はトラクター工場を攻撃しソ連軍第61軍司令官チュイコフ将軍の司令部300メートルまで肉迫。なお、この闘いで第103装甲擲弾兵連隊の一部はヴォルガ川に到達。 (しかしながらこれまでの激戦による消耗は激しく、可動する戦車はわずか19輌となる)

続く10月17日、残った戦車ともに擲弾兵連隊はバリカドイ兵器工場を攻撃。19日までの3日間の戦いで両工場の大部分を占領するも、赤軍兵士の必死の反撃により攻撃は頓挫、膠着状態となる。その後も赤い10月製鉄工場への攻撃にも加わるが同じくソ連軍の激しい抵抗に遭い消耗を重ねる。
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11月11日 午前6時30分、第14装甲師団を含む7個師団が工場地区に向けて総攻撃を開始。市内の大部分を占領するがドイツ軍の消耗も激しく、日ごとに寒気が強くなるなかで、戦線は再び膠着状態となる。(結局、これが第6軍にとって最後の総攻撃となる)

GR103-26.jpg 
11月22日にソ連軍の大反攻"ウラヌス作戦"が開始され、スターリングラードにいるドイツ軍の包囲網が形成される。ドン軍集団による包囲解除攻撃「冬の嵐作戦」も失敗し、1943年2月2日の第6軍の降伏とともに第14装甲師団は事実上壊滅。

1943年3月フランス西部で残存部隊により第14装甲師団は再編成される。10月に第8軍に編入後、再び東部戦線へ従軍。11月にはドネツク、第8軍は1944年1月にコルスン-チェルカーシィでソ連軍に包囲されるが、多数の死傷者を出しながらも2月には包囲網の突破に成功。
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1944年4月に第6軍に編入、4月8日-6月6日にかけて行われた第一次ヤッシー=キシニョフ攻防戦に参戦。
その後、再び第8軍に従属後、1944年8月には第18軍の北方軍集団に編入されクールラント橋頭堡の防衛に配置される。9月に"バルト海攻勢"が始まると北方軍集団は中央軍集団と分断され、クールラントは包囲される。(クールラント・ポケット)師団にとってこれで3度目の包囲戦となる。一部は海上脱出に成功するが多くは同地にて降伏、終戦を迎える。

このように第14装甲師団はスターリングラード、コルスン-チェルカーシィ、クールラントと3度も包囲戦を経験した非常に稀有な師団である事が分かります。

それでは、師団戦史に照らし合わせて勲記・所有証明書からKarl Lindner軍曹の戦いを順番に見ていきたいと思います。

1941/42年東部戦線冬季戦記章:WINTERSCHLACHT IM OSTEN 1941/42

GR103-29.jpg

勲記:URKUNDE
GR103-3_201904060952538e2.jpg IM NAMEN DES FÜHRERS 
UND
OBERSTEN BEFEHLSHABERS
DER WEHRMACHT

(総統兼国防軍最高司令官の名において)
IST DEM

Gefreiten Karl Lindner  (カール・リンドナー上等兵)

AM
23.September 1942 (1942年9月23日)

DIE MEDAILLE 
WINTERSCHLACHT IM OSTEN
1941/42
(1941/42年東部戦線冬季戦記章)
(OSTMEDAILLE)
(東部戦線従軍記章)

VERLIEHEN WORDEN. 
(ここに授与する)

FÜR DIE RICHTIGREIT:(代理署名)

Obftlt. u. RegimentsKommandeur
(中佐 連隊長)

Ottomar Hansen中佐による署名

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授章には1941年11月15日から1942年4月15日まで間、東部戦線において下記の条件を満たす必要がありました。

・14日間戦闘に参加した者(空軍兵士は30回の出撃)
・60日間非戦闘活動に従事した者
・戦闘で負傷した者
・戦死した者
・戦傷章に値する程度の凍傷もしくは冬季の風土による負傷をした者

この後に紹介する戦傷章の勲記には負傷認定日が1942年8月となっている為、Lindner軍曹(当時は上等兵)が該当するのは、上2つのどちらかと考えられます。


戦傷章(黒):VERWUNDETENABZEICHEN(Schwarz)

GR103-30.jpg     
 
所有証明書:BESITZZEUGNIS
GR103-1_201904060952506e8.jpg
BESITZZEUGNIS (所有証明書)

DEM

(NAME,DIENSTGRAD)
(氏名,階級)
Gefr. Karl Lindner  (カール・リンドナー上等兵)

(TRUPPENTEIL, DIESTSTELLE)
(所属部隊)
Stab I. / Panzer-Grenadier-Regiment 103
(第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第1本隊所属)

IST AUF GRUND 
(授章理由)
SEINER AM 4.8.1942 ERLITTENEN MALIGEN
EIN MALIGEN VERWUNDUNG-BESCHÄDIGUNG 
(1942年8月4日に被った1回の負傷もしくは損傷)

DAS
VERWUNDETENABZEICHEN 
in
"Schwarz"(戦傷章 黒)

VERLIEHEN
 WORDEN. (ここに授与する)

O.U.  ,DEN  20.7.1943.
(1943年7月20日 *O.U.=Ortsunterkunft 宿営地にて)

(UNTERSCHRIFT)
(署名)
gez. Hoppe
(*gez=gezeichnet 署名省略)

(DIENSTGRAD UND
 DIENSTSTELLE)(階級と職務)
Hauptmann u. Btl.-Kommandeur
(大尉 大隊長)

F. d. R.=Für die Richtigkeit(代理署名)
Leutnant u. Adjutant (少尉 副官)

負傷認定日が1942年8月4日となっており、この時期は部隊がスターリングラードの南部、ドン川東側に部隊は展開しており、チュイコフ麾下の第51軍との交戦で負ったものと思われます。
授章が一年近く後、所属が本部(Stab)付きなので、恐らくKarl Lindner軍曹は後方へ輸送される程の重傷だったのでしょう。しかしながらスターリングラードでの師団の命運を考えれば、この時負傷したのは不幸中の幸いと言えます。

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戦傷章(銀):VERWUNDETENABZEICHEN(Silber)

GR103-23.jpg  

所有証明書:BESITZZEUGNIS
GR103-2_20190406095252417.jpgBESITZZEUGNIS(所有証明書)

DEM

(NAME,DIENSTGRAD)
(氏名,階級)
Unteroffizier. Karl Lindner (カール・リンドナー上等兵)

(TRUPPENTEIL, DIESTSTELLE)
(所属部隊)
2. / Panzer-Grenadier-Regiment 103
(第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第2中隊)

IST AUF GRUND 
(授章理由)
SEINER AM  21.7.1942, 7.8.42 u 5.6.44 ERLITTENEN 
3 MALIGEN VERWUNDUNG-BESCHÄDIGUNG 
(1942年7月21日、同年8月7日、1944年6月5日に被った3回の負傷もしくは損傷)

DAS
VERWUNDETENABZEICHEN 
IN "Silber"
(戦傷章 銀)
VERLIEHEN WORDEN(ここに授与する)

 
Btl.-Gef.-Std. ,DEN 10.6.1944

(1944年6月10日大隊司令部にて)

(UNTERSCHRIFT)
(署名)

(DIENSTGRAD UND
 DIENSTSTELLE)
(階級と職務)
Hauptmann und. Btl.-Führer I./Pz.Gren.Rgt.103
(大尉 第103装甲擲弾兵連隊第1大隊長)

※Btl.-KommandeurとBtl.-Führerをどちらも大隊長と訳していますが、Kommandeurは正規、Führerは代理(試用)という位置づけです。なお、規定では大隊長は左官(少佐)が務めることになっていましたが、戦争後期になると大尉が務める例がよく見られます。
戦傷章(銀)の授章条件は、前線での負傷が3回もしくは4回、また一回であっても手肢を切断するような負傷、片目の視力あるいは聴力を失うことでした。
負傷認定日には、1942年7月21日、1942年8月7日、1944年6月5日となっています。
1944年6月5日の負傷は第一次ヤッシー=キシニョフ攻勢で受けたものと思われますが、授章日が5日後なので軽傷だったのかも知れません。

一つ疑問なのが、2回目の負傷認定日が戦傷章(黒)の認定日(8月4日)の3日後になっている点です。スターリングラードで師団記録が消失した為、後方の病院の受入記録が記載されたのかもしれません。 なお、授章日1944年6月10日時点で階級が軍曹(Unteroffizier)に昇進していることが分かります。

白兵戦章(銅):NAHKAMPFSPANGE(I. Stufe)

CCC.jpg 

所有証明書:BESITZZEUGNIS
GR103-4_20190406095255812.jpgBesitzzeugnis (所有証明書)

(Dienstgrad)
(階級)
Dem Unteroffizier.(軍曹)
 
(Vor-und Familienname)(氏名)
Karl Lindner  (カール・リンドナー)

(Truppenteil)
(所属部隊)
I. / Pz.Gren.Rgt 103
(第103装甲擲弾兵連隊第1大隊第1中隊)

Verleihe ich für tapfere Teilnahme
an 15 Nahkampftagen
(勇敢な15日間における近接戦闘参加に対し)

die 1.Stufe der
Nahkampfspange

(白兵戦章 銅)

Rgt.-Gef.-St., den 28.12.1944.
(1944年12月28日連隊司令部にて)

Oberst u. Rgt.-Kommandeur
(大佐 連隊長)


Walter Palm大佐による署名 。1945年3月20日に最後の第14装甲師団長として就任。

※こちらの所有証明書はゼラチン複写版=ヘクトグラフ(Hektograph)で作らています。印刷された証明書が手元にない場合、仮発行用とされました。
白兵戦章は近接攻撃を行った兵士に与えられる戦功章です。授章条件は参加した日数で金章(III. Stufe)が50日、銀章(II. Stufe)が30日、銅章(I. Stufe)が15日となっています。
授章日が1944年12月28日となっており、それ以前に行われた戦闘で15日間の近接攻撃に参加したことになります。
クールラントでの大規模な戦闘は6回で12月28日以前は、1回目と2回目、3回目の前半が該当します。

1回目:1944年10月27日−1944年11月7日
2回目:1944年11月20日−1944年11月30日
3回目:1944年12月23日−1944年12月31日
4回目:1945年1月23日−1945年2月3日
5回目:1945年2月12日−1945年2月19日
6回目:1945年3月17日−1945年4月4日

GR103-6.jpg
クールラント包囲戦の前線マップ。1944年と1945年の前線の間にあるPriekule (独:Preekuln)に第14装甲師団が配置された記録があります。

Karl Lindner軍曹についての記録はここまでで、無事に終戦まで生き延びたのかどうかは不明です。
以前、こちらで記事にしたとおり、空・海路で脱出した一部の兵士を除く約135,000名の兵がソ連軍に降伏、捕虜となりました。降伏の際、ロシア兵の報復を恐れ、カフタイトルなどの戦功章やその勲記、授章履歴が書き込まれたSoldbuchなどは破棄したと考えます。この勲記も授章後に家族へ宛てた手紙に同封された可能性が高いです。
60436_2019040609524636b.jpg 
クールラントで捕虜になった兵士たちはシベリアの強制収容所へ送られ、故郷に生きて戻れたのはごく僅かでした。


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Robert Weger兵長(第7山岳師団第206山岳猟兵連隊)

こんにちは、エーデルマンです。梅雨が明けていよいよ夏本番ですね。
最近駆け込みで『アンノウン・ソルジャー・英雄なき戦場』を観ました。本作品は第二次大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソ連とフィンランドの間で戦われた戦争、いわゆる“継続戦争”(別名:第二次ソ・芬戦争)を兵士の視点で描いたもので、銃弾の飛び交う戦場描写は臨場感があり迫力満点でした。

WR_0.jpg 

映画を観終わった後、なぜ"継続戦争"と呼ぶのか?ふと疑問に思い、さっそくWikipediaで調べてみました。
それは1939年11月30日にソビエト連邦のフィンランド侵攻による国土防衛戦争、通称"冬戦争"(別名:第一次ソ・芬戦争)に"継続”している”戦争”だからのようです。(確かに映画の中でも冬戦争で戦った兵士が再招集されていました)

冬戦争ではフィンランド軍は貧弱な武装にも関わらず地の利と気候を活かした戦術によりソ連軍に多大な被害を与え講和に持ち込みますが、カレリア地方などを割譲、ハンコ半島を租借地とすることを余儀なくされます。
Finnish_areas_ceded_in_1940.png 
フィンランドが冬戦争で失った領土(Wikipediaより)

間違いなくソ連が再び侵攻してくると考えたフィンランド政府はドイツと秘密協定を結び、軍事経済援助を受ける代わりに領土内へのドイツ軍の駐留および領内通過を認めました。ところがこの密約はすぐにソ連にもバレてしまいます。
当初は中立を通そうとしましたが、1941年6月22日にドイツがソ連へ侵攻すると、ドイツ空軍がフィンランド領内からソ連を攻撃した報復攻撃としてソ連空軍がフィンランドを空爆、フィンランドが6月26日にソ連へ宣戦布告したことで戦争が始まります。

前回の孤軍奮闘とは違い、今回はオウル=ベロモルスクを結ぶ線より北側はドイツ軍が、南側は、カール・マンネルハイム元帥のフィンランド軍の作戦地域とし、失地回復を目指します。

8月末にはカレリア地方を奪還。冬戦争以前の国境線を取り戻す事に成功します。
Map_of_Finnish_operations_in_Karelia_in_1941.png 

このブログではフィンランド駐留部隊の一つである第7山岳師団(7.Gebirgs-Division)に時折スポットライトを当て、ドイツ軍側からの視点で継続戦争とドイツ‐フィンランド間で行われた戦争"ラップラント戦争"を見ていきたいと思います。

まずは第7山岳師団の戦役について説明から。

第7山岳師団は第99軽歩兵師団(1940年11月に編成、1941年6月バルバロッサ作戦に参加 、ウクライナでの戦闘で消耗し10月にドイツ本国へ撤退)を母体とし1941年10月22日に再編成されました。

師団マークの"Der Bergschuh"

WR_27.jpg WR_3.jpg 

<第7山岳師団部隊編成>
■第206山岳猟兵連隊
・第1大隊
・第2大隊
・第3大隊
・山岳装甲猟兵中隊(機械化)
■第218山岳猟兵連隊
・第1大隊
・第2大隊
・第3大隊
・山岳装甲猟兵中隊 (機械化)
■第99装甲猟兵大隊
■第99偵察大隊
■第79山岳砲兵連隊
・第1大隊
・第2大隊
・第3大隊
・第4大隊
■第99山岳工兵大隊
■第99山岳通信大隊
■第54山岳補充大隊
■第54スキー大隊
■第99補給部隊

第7山岳師団は継続戦争でフィンランド軍を支援するため、1942年にフィンランドのラップラント(フィンランドの北端部)に派遣され、Uhtua(現カレリア共和国カレヴァラ)で、ソ連軍の進撃をフィンランド軍と共に迎え撃ちます。
Continuation_War_1942_and_Soviet_assaults_English.jpg  
1942年の戦線(Wikipediaより)

なお、師団の一部 (Geb.Jg.Rgt. 206, III./Geb.Jg.Rgt. 218,  I./Geb.Art.Rgt.82) はカンプグルッペ"Hoffmeister"として1942年3月にデミャンスク盆地のIlmensee(イリメニ湖)での戦闘に加わります。

Bundesarchiv_Bild_146-1972-042-42,_Russland,_Kesselschlacht_von_Demjansk
デミャンスク包囲戦(1942年2月8日 - 4月21日)のドイツ軍。

Hoffmeisterの戦役
1942年3月28日 -1942年3月30日: KoslowoとKudrovoへの攻撃
1942年4月03日 -1942年6月02日: Redzywegで防衛 
1942年6月03日 -1942年6月09日: Gridinowegへ攻撃 
1942年6月10日 -1942年7月12日: Gridinowegで防衛
1942年7月13日 -1942年8月12日: フィンランドへ転戦 

1942年8月中に第7山岳師団の全連隊はフィンランドに集結、Kiestinkiでソ連軍の反撃に備えます。

同師団は1943年8月に行われたSenossero地域での「Bunkerrücken」(トーチカ尾根)攻略にも参加。このBunkerrückenへの攻撃は、1943年のカレリア地峡において最も傑出した闘いとされています。 BunkerrückenはKangaschwara南部のソ連海軍歩兵旅団部隊によって約1年半かけて要塞化された尾根で、1941年のフィンランドの攻撃の後もソ連軍が確保していました。
尾根の地形は、防御側に極めて有利で攻撃側の背後まで見通しが利き、攻略には多大な犠牲が必要とされました。
この攻略については第99山岳工兵大隊兵士の手記が残されているので紹介したいと思います。

攻撃準備は1943年6月から既に始まっていた。突撃部隊は第7山岳師団の第218山岳猟兵連隊第2と第12中隊、第16山岳装甲猟兵中隊の駆逐戦車2両、迫撃砲部隊 、重戦車砲兵部隊から構成されていた。これらの部隊は前線から引き抜かれ、徹底的に訓練された。 さらに他の突撃部隊として火炎放射器 、対戦車砲と重火器を装備した第99山岳工兵大隊第2中隊が加わり、2大隊分の兵力がトーチカ尾根を攻略することとなった。最初の中隊が尾根の北側斜面のトーチカを潰し次第、次の中隊が続き、左右のトーチカを潰す。

攻撃開始時間は1943年8月9日に12時35分に設定。 各中隊は敵に気づかれずに突撃開始位置に着き、それから目標に向かって突撃した。 トーチカからトーチカへ(その数は元々想定していた以上に多かった)攻撃と占拠を繰り返した。 トーチカは視界の悪い森の中に巧妙にレイアウトされていた為、山岳部隊が接近して見つけるしかなかった。この勇敢な攻撃で、第6中隊はSukkulaに接近して基地に突入した。第99山岳工兵大隊第2中隊のDennerlein中尉の優れた指揮に援護され第7中隊は地峡に攻め込んだ。(中尉は、攻撃の翌日1943年8月10日に戦死)

-「Einzelschicksale Riedlingsdorfer Soldaten im Zweiten Weltkrieg」より-


WR_6.jpg

1943年夏に第206山岳猟兵連隊第1大隊の大尉と軍曹がキューベルワーゲンで走行中に2本の木に結びつけられたワイヤーで斬首されるという事件が発生しました。ドイツ軍はソビエトパルチザンの仕業と断定。(東カレリア地方ではソビエトパルチザンが度々破壊活動を行っていたが、攻撃対象のほとんどはフィンランド市民でしかも女性や子供であった。ソビエトパルチザンについて説明したWikipediaのページ(英語)はこちら
ドイツ軍は報復として赤軍パルチザンに協力する村を襲撃し、村民(含むパルチザン)70人を殺害します。

ここで少し時間を遡り、全体的な話に戻します。

1943年2月にドイツ軍がスターリングラード攻防戦で決定的な敗北を喫すると、枢軸国不利と見て戦争からできるだけ早く離脱し、ソ連との講和を結ぶことを考え始めました。
しかしソ連側の要求は厳しく、その中でも独力でフィンランド在留のドイツ軍を駆逐するという条件は簡単に呑めるものではありませんでした。

フィンランドはソ連との講和交渉を打ち切り、カレリア地峡に前もって備えていた防衛線以外にも防塞の建築を始め、動員を拡大するなどソ連との本格的な戦闘に備えます。

1944年6月9日に連合軍がノルマンディーに上陸すると、ソ連軍はフィンランドへの攻撃を再開します。冬戦争とは比較にならないほど戦闘スキルが向上したソ連軍の攻撃に、フィンランド軍は苦戦。カレリア地峡の主防衛線は破られ、6月21日には第三のVKT防衛線まで後退します。

しかしながら、ここからがフィンランドの粘り強い所で、再びドイツに接近しリュティ大統領が「フィンランドはドイツと共に断固最期まで交戦する」と(個人名義で)宣言することで航空機や対戦車兵器など軍需物資と兵力の支援を確保します。

交渉の裏方で尽力したのが、第20山岳軍団司令官のエデュアルト・ディートル上級大将であると言われています。

WR_9.jpg 

1944年6月23日、会議においてソ連軍に降伏したフィンランド軍を軽蔑する言葉を発したヒトラーにディートルは、「総統閣下、私は一人のバイエルン人としてあなたに話しかけなければなりません!」とテーブルを叩いて、フィンランドに対するヒトラーの不当な評価を激しく非難した。意外にもヒトラーはディートルに対して「君の言うことは全面的に正しい」と答え、ディートルに心のこもった別れを告げた後、他の軍人の方を向いて「諸君、私の将軍たちはみなあの男のようであって欲しいものだ」と語ったとされる。

-「Wikipedia」より-

ドイツ軍の援軍があってもソ連軍との兵力差は圧倒的であり、フィンランド軍は善戦しますが徐々に追い詰められていきます。しかしながら再び幸運の女神はフィンランド軍に微笑ます。ソ連軍の暗号無線を傍受し解読、7月3日にソ連軍がイハンタラへ総攻撃を加えようと集結しているところへ、航空機による爆弾投下と火砲による集中砲火により壊滅状態に追い込みます。

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このようにフィンランドの激しい抵抗にソ連は3倍近い損害を出すことになりやむを得ず侵攻を停止します。

ここでソ連首脳陣は考えます。これ以上フィンランドへ戦力を割くのは、戦略的に意味はあるのか?また連合国が欧州を東進する構えを見せており、ソ連としては対枢軸国戦争後のヨーロッパでの勢力圏拡大の為に、東欧諸国へ攻撃を行った方が理に適っているのでは無いか?

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フィンランド側もドイツの敗戦は火を見るよりも明らかで援助物資もいつまでも期待できない中、長期戦は避けたい。
戦線が膠着すると同時にフィンランドはソ連との講和交渉を再開します。ソ連から提示された講和条件は賠償金3億ドル(現在の米ドルで約40億ドル)相当の支払い、国境線を冬戦争後のものに戻すこと、ペツァモの割譲、フィンランド湾の要衝ポルッカラをソ連の租借地とすること(その代わりハンコ半島の租借権は返上)、そしてドイツ軍を武装解除し、フィンランドから追放することでした。 

フィンランドはこの条件に合意すると、まずは1944年9月2日にフィンランドがドイツとの外交関係を解除、9月19日にソ連との間で停戦協定を締結します。(「モスクワ休戦協定」)

ドイツ軍をフィンランドから撤退する期限は9月15日と定められており、残るドイツ兵は武装解除しソ連へ引き渡すことになりました。当時フィンランドには21万4千のドイツ軍将兵が駐留しており、短期間での撤退は絶対に不可能です。

実はドイツ軍側も本国には内緒でノルウェーへの撤退準備「ビルケ作戦」を進めており外交関係の解除の翌日、9月3日から退路の建設を開始していましたが、まだまだ不十分な状態でした。

期限が過ぎてしばらくした9月28日にドイツ軍第20山岳軍とフィンランド軍の間で戦争が勃発します。(「ラップランド戦争」)
戦争は始まったものの、両国はこれまで共に戦った盟友であり、ドイツ兵とフィンランド兵の間には友情が芽生えていた為、死傷者は出ないよう手加減して戦っていました。

しかしながらソ連はドイツとフィンランドが本気で戦っていないことを見抜き、フィンランドを強く批判します。またドイツ軍もソ連が割譲することになったペツァモ(ニッケルの産地)を保持しようとし、退却は中々進みませんでした。

ドイツ軍を1日も早く退却させなければ休戦協定を破棄するとソ連に迫られたフィンランド軍は、Tornioに上陸し、同時に陸路Kemiを攻撃する進攻作戦を計画、1944年10月1日に実行します。(Tornioの戦い)ドイツ軍も激しく応酬した為、両軍に多数の死傷者がでます。この戦いを境に戦闘は本格化します。

ドイツ軍はヒトラーから命令された焦土作戦により撤退途中の町々を廃墟にしながら次々とノルウェーへ撤退します。(ただしロタール・レンデュリック将軍は病院と教会だけは残すよう命令)最後に残ったドイツ軍第7山岳師団が陣地を放棄して、ノルウェー領に撤退したのが1945年1月10日、負傷などで取り残されたドイツ兵がフィンランドを離れたのは1945年4月27日でした。

WR_22-1.jpg  

前置きがいつにもなく長くなりました。
本日のネタはこちらの第7山岳師団所属兵士のヴェアパス(Wehrpaß)ゾルドブーフ(Soldbuch)です。

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アンノウン・ソルジャーから始まり簡単に継続戦争について前置き程度に記述するつもりが、ついつい熱が入って長文になってしまいました。
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まずはヴェアパスから見ていきたいと思います。この手帳の持ち主であるRobert Weger氏は1923年4月5日生まれ。バイエルン州のSchweinfurt出身で、徴兵前の職業は靴職人(Schuhmacher)です。

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所属部隊のページ。19歳で軍歴がスタートします。
1942年2月25日-1942年5月11日:第481歩兵補充大隊訓練第2中隊(2./Inf.Ers.Abt.481)
1942年5月12日-1942年6月23日:第3野戦補充大隊第7中隊(Feld Ers.Btl. 7/3)
1942年6月24日-1945年5月08日:第206山岳猟兵連隊第2大隊第7中隊(7./Geb.Jg.Rgt. 206)
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軍務記録のページ。
1942年6月24日 -1942年7月15日: Ilmensee(イリメニ湖)で攻防戦に参加
1942年7月16日 -1942年8月15日: 戦線から離脱、ラップラント方面軍(第20山岳軍)の作戦区域に移動
1942年9月03日 -1944年9月02日: 北部フィンランドで戦闘配置
1944年6月10日 -1945年1月20日: 北部フィンランドで防衛戦 / 北部フィンランドから撤退、Lyngen-Narvik域へ移動
1944年9月15日 -1944年9月26日: a)Kuusamo東部で防衛戦 
1944年10月1日 -1944年10月8日: b)KemiとTornioで防衛戦
1945年1月21日 -1945年5月08日: ノルウェーに駐留

なかなかの経歴です。"Hoffmeister"の一員としてデミャンスクで戦い、その後フィンランド防衛に従事し、ラップラント戦争ではTornioの戦いにも参加しています。

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1944年6月-9月の第206山岳連隊の配置地図 (Courtesy of Simon.O)

続いてゾルドブーフです。
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ヴェアパスの写真は入営前の撮影なので私服姿ですが、ゾルドブーフの写真は軍服姿です。このページから1942年10月に一等兵、1942年12月に上等兵、1944年6月に兵長に昇進したことが分かります。
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こちらは武器と装備のページ。この兵士には狙撃銃(Zielfernrohr=Gewehr)が支給されていました。ちなみにKar.98Kと共に支給された狙撃スコープですが、ZF.39のような高倍率スコープでは無く、1.5倍率のZF.41と思われます。
高倍率のスコープは狙撃訓練を受けた狙撃手のみに支給されますが、この兵士のヴェアパスにはKar.98KとMG34以外に特別な訓練の記録がありません。一方でZF.41は狙撃手以外にも射撃の上手い兵士(日:選抜射手 英:Marksman/Sharpshooter 独:Scharfschütze)へ支給され、その場合は特別な訓練は行われませんでした。
※ZF.41の開発コンセプトについては相互リンクをさせていただいているKentomoさんのHPに詳しい説明があります。

しかしながら上等兵の身分でMP40が正式に支給されていることから、やはり狙撃手の可能性もあります。(狙撃兵には即応力向上の為、短機関銃が支給されることがあったようです)
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また一般装備のページには狙撃手に支給された「Tarnjacke」は無く、代わりに「Tarnnetz(迷彩ネット)」の文字が。
WR_20-4.jpg  
ちなみにネットで見つけた情報ですが、第7山岳師団に支給された小火器は以下の通り。
WR_21.jpg 

Zielfernrohrgewehre 182挺は、4倍率とZF.41合わせた数と思われますが、割合としては中隊当たり1挺と非常に少ない支給率です。

最後に受章履歴のページです。
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1943年8月21日に戦傷章(黒)、1944年8月5日に二級鉄十字章(E.K.II)、そして1945年7月31日にラップラント盾章(Lapplandschild)を受章しています。

1944年11月から勃発したラップランド戦争を対象戦役として、第20山岳軍のフランツ・ベーメにより提案された。ラップランド盾章はこの戦争で6か月以上「立派で役立った」人物に贈られる予定であった。
1945年2月に制定されたこの盾章は、正式に設けられた盾章としては最後のものである。制定された時期が終戦間近ということもあり、1945年5月以降も部隊の司令官によって授与されたが詳しい数は不明である。
ラップランド盾章は他の盾章と異なり、国家鷲章にハーケンクロイツが使用されていなかった。また、兵科を表す裏布も存在していなかった。

-「Wikipedia」より-
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ラップラント盾章のバリエーション。 (Courtesy of http://www.cimilitaria.com/branchindex.htm)

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ヴェアパスにもラップラント盾章の授章記録があります。(署名はHptm.Herbert Schmidt)こちらはブロック体で書かれていて分かりやすいですね。

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師団記録によれば第7山岳師団は撤退時には殿(しんがり)を務め、ノルウェーへ撤退したのは1945年1月でした。第206山岳猟兵連隊はノルウェーのトロンハイムで終戦を迎えイギリス軍に投降しました。

なお戦後ノルウェーで捕虜になったドイツ兵(主に工兵部隊)は、地雷の除去作業に従事し1945年8月までに350人が死亡したという記録があります。(デンマークで地雷除去作業を行ったドイツ兵の苦難ついてはこちら
ただしノルウェーにおいては連合国による強制ではなく、第20山岳軍のフランツ・ベーメが自ら指揮したという記録が残っています。(地雷を250個除去した兵士には二級鉄十字章が支給されたそうです)
10149206_725847184133924_1218162946_n.jpg 

ノルウェーで地雷除去作業をするドイツ兵


ノルウェーから引き揚げるドイツ兵


Weger兵長が生きて故郷で家族と再会できたことを祈ります。
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