M31水筒 (Feldflasche 31) Part10 山岳兵用
衛生兵用の水筒について日記を書いて以来、山岳猟兵用の水筒(Feldflasche 31)が少し気になっていました。
日記にも書きましたが、山岳猟兵用として売られている水筒のほとんどが実は衛生兵用という状況なのです。
それもそのはず、衛生兵用と山岳猟兵用の違いは次の一点のみ!
水筒のハーネスの裏の金具が見分けるポイント。
左のフックになっている方が衛生兵用水筒
右のナス環になっている方が山岳猟兵用水筒。
ハーネス付きの水筒は現存数も多いのですが、目にするのは何故か衛生兵用ばかり。
バリエーションの一つとして気にはなりつつも、何が何でも欲しい!というようなアイテムでも無く、ハーネス付き水筒を目にしたら一応金具を確かめてみる程度でした。
そんなある日、何気なく見ていたサイトで山岳猟兵用水筒が売りに出されているのを発見。ちょっと“難あり”な状態でしたが、それ故にリーズナブル価格だったので購入することにしました。
こちらが山岳兵に支給された水筒です。容量は1リットル、ハーネスが付いている点は衛生兵用水筒と同じです。
もちろん、ドイツ軍の山岳猟兵全員がこの水筒を使っていたわけではありません。 支給された水筒のバリエーションの一つとお考えください。
W.A.L38の刻印があります。“W.A.L”はメーカー名、“38”は1938年製を意味します。

幅広のストラップの先端にバネ式のナス環が付いています。
他のM31水筒同様、このナス環を使って雑嚢のDリングに取り付けます。
初期型の水筒と同じくぽってりとしたアルミ製のナス環になっていますが、1942年頃からスチール製に変更されます。
前述した通り、この水筒には“難あり”の部分があります。
通常あるはずの小型のベークライトもしくはアルミ製カップがこの水筒には付いていません。
カップを無くした場合、代わりは部隊から再支給されたり酒保で調達することができたはずですが、この水筒の持ち主はそうはせずに敢えてカップの無い状態で使用していたようです。
お湯を温めたりするのに使えた取っ手付きのカップと違い、小型のカップは一番上の絵葉書のように〝口のみ〟する場合、邪魔な存在だったのかも知れません。当時の写真にはカップが無い水筒を持った兵士がたくさん写っています。
なお、写真でお判りの通り、カップが無いことで余分になったストラップはカットされています。
左から衛生兵用、山岳猟兵用、初期型M31水筒です。

日記にも書きましたが、山岳猟兵用として売られている水筒のほとんどが実は衛生兵用という状況なのです。
それもそのはず、衛生兵用と山岳猟兵用の違いは次の一点のみ!

水筒のハーネスの裏の金具が見分けるポイント。
左のフックになっている方が衛生兵用水筒
右のナス環になっている方が山岳猟兵用水筒。
ハーネス付きの水筒は現存数も多いのですが、目にするのは何故か衛生兵用ばかり。
バリエーションの一つとして気にはなりつつも、何が何でも欲しい!というようなアイテムでも無く、ハーネス付き水筒を目にしたら一応金具を確かめてみる程度でした。
そんなある日、何気なく見ていたサイトで山岳猟兵用水筒が売りに出されているのを発見。ちょっと“難あり”な状態でしたが、それ故にリーズナブル価格だったので購入することにしました。


こちらが山岳兵に支給された水筒です。容量は1リットル、ハーネスが付いている点は衛生兵用水筒と同じです。
もちろん、ドイツ軍の山岳猟兵全員がこの水筒を使っていたわけではありません。 支給された水筒のバリエーションの一つとお考えください。

W.A.L38の刻印があります。“W.A.L”はメーカー名、“38”は1938年製を意味します。

幅広のストラップの先端にバネ式のナス環が付いています。
他のM31水筒同様、このナス環を使って雑嚢のDリングに取り付けます。
初期型の水筒と同じくぽってりとしたアルミ製のナス環になっていますが、1942年頃からスチール製に変更されます。
前述した通り、この水筒には“難あり”の部分があります。

通常あるはずの小型のベークライトもしくはアルミ製カップがこの水筒には付いていません。
カップを無くした場合、代わりは部隊から再支給されたり酒保で調達することができたはずですが、この水筒の持ち主はそうはせずに敢えてカップの無い状態で使用していたようです。
お湯を温めたりするのに使えた取っ手付きのカップと違い、小型のカップは一番上の絵葉書のように〝口のみ〟する場合、邪魔な存在だったのかも知れません。当時の写真にはカップが無い水筒を持った兵士がたくさん写っています。
なお、写真でお判りの通り、カップが無いことで余分になったストラップはカットされています。

左から衛生兵用、山岳猟兵用、初期型M31水筒です。

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M31衣嚢 (Bekleidungssack 31)
今週末は出張が入ってしまっていたのでブログはお休み・・・と思いましたが、習慣って怖いですね。更新しないとまるで仕事をサボッているかのような感覚に囚われ、来週の仕事の準備をしないといけないにも関わらずブログを優先してしまいました。とういうわけで、今回急遽アップするのはM31衣嚢(Bekleidungssack 31)です。
衣嚢は雑嚢や他の基本装備と同時期、1931年に採用されました。Bekleidungs(衣服)とsack(袋)で衣嚢。直訳どおり衣類を入れて持ち運ぶかばんです。
横幅35cmx縦34cmのコットン(キャンバス)製で、上部に取手がついており手提げで持ち運びができます。雑嚢のようなDリングやフックなどストラップを取り付けたりベルトに引っ掛ける金具はありません。
衣嚢について詳しく解説している資料があまり無い中で、STEINER氏のサイトは非常に参考になります。
氏の解説によれば、衣嚢には初期・中期・後期と3種類あり、簡単には以下の違いがあるようです。
初期型-フィールドグレー色で革の縁取り有り
中期型-オリーブグリーンに変更。革の縁取り無し
後期型-ベルト穴が5つから2つに変更。
上記から分類すると、私の所有している衣嚢は中期型、戦時生産モデルと思われます。
衣嚢は基本装備として全ての兵士に支給されました。
Soldbuchの支給品目のページです。背嚢(Tornister)の隣に衣嚢(Bekleidungssack )の項目があります。
取手は革製で本体に縫い付けられています。写真には写っていませんが、裏側が黒く着色されています。
こちらの写真には初期型の衣嚢が写っています。背嚢(もしくはYサス)のフック金具に取手を引っ掛けています。
ベルトも取手と同様の処理です。なおこの衣嚢が中期型という根拠がこのベルトの穴の数です。
手持ちの衣類関係を衣嚢に入れてみることにしました。
内訳は下着上下、シャツ、タオル、裁縫キット、セーター、靴下ペア、手袋ペア、トーク、クラーゲンビンデ、略帽です。
この程度であれば余裕でスッポリと収まります。しかしながら実際、常に衣嚢を持ち歩いていたわけでは無く、行軍中は背嚢と一緒に輜重部隊に預けていた為、必要な時に適宜取り出せず頻繁に使う物は入れられなかったのでは?と思います。
見た目はかなり“おデブさん”になってしまいましたが、このような状態の衣嚢を当時の写真で目にすることができます。
これはネットで拾った画像です。M36野戦服を着用していますが、ヘルメットに国家章が無い兵士が多いことから1940年3月以降、フランス侵攻作戦の前後の写真と思われます。衣嚢は初期型のようですが、いくつか色のバリエーションがあることが分かります。どの兵士も野戦服のポケットがパンパンに膨らんでおり衣嚢と共に中身がとても気になります。

衣嚢は雑嚢や他の基本装備と同時期、1931年に採用されました。Bekleidungs(衣服)とsack(袋)で衣嚢。直訳どおり衣類を入れて持ち運ぶかばんです。


横幅35cmx縦34cmのコットン(キャンバス)製で、上部に取手がついており手提げで持ち運びができます。雑嚢のようなDリングやフックなどストラップを取り付けたりベルトに引っ掛ける金具はありません。

衣嚢について詳しく解説している資料があまり無い中で、STEINER氏のサイトは非常に参考になります。
氏の解説によれば、衣嚢には初期・中期・後期と3種類あり、簡単には以下の違いがあるようです。
初期型-フィールドグレー色で革の縁取り有り
中期型-オリーブグリーンに変更。革の縁取り無し
後期型-ベルト穴が5つから2つに変更。
上記から分類すると、私の所有している衣嚢は中期型、戦時生産モデルと思われます。
衣嚢は基本装備として全ての兵士に支給されました。

Soldbuchの支給品目のページです。背嚢(Tornister)の隣に衣嚢(Bekleidungssack )の項目があります。

取手は革製で本体に縫い付けられています。写真には写っていませんが、裏側が黒く着色されています。

こちらの写真には初期型の衣嚢が写っています。背嚢(もしくはYサス)のフック金具に取手を引っ掛けています。

ベルトも取手と同様の処理です。なおこの衣嚢が中期型という根拠がこのベルトの穴の数です。

手持ちの衣類関係を衣嚢に入れてみることにしました。
内訳は下着上下、シャツ、タオル、裁縫キット、セーター、靴下ペア、手袋ペア、トーク、クラーゲンビンデ、略帽です。

この程度であれば余裕でスッポリと収まります。しかしながら実際、常に衣嚢を持ち歩いていたわけでは無く、行軍中は背嚢と一緒に輜重部隊に預けていた為、必要な時に適宜取り出せず頻繁に使う物は入れられなかったのでは?と思います。


見た目はかなり“おデブさん”になってしまいましたが、このような状態の衣嚢を当時の写真で目にすることができます。

これはネットで拾った画像です。M36野戦服を着用していますが、ヘルメットに国家章が無い兵士が多いことから1940年3月以降、フランス侵攻作戦の前後の写真と思われます。衣嚢は初期型のようですが、いくつか色のバリエーションがあることが分かります。どの兵士も野戦服のポケットがパンパンに膨らんでおり衣嚢と共に中身がとても気になります。
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M35野戦服 (Feldbluse 35)
ライヒスヴェーア末期の1933年4月1日に4つポケットの野戦服が採用されてから、1945年の第三帝国崩壊までドイツ軍はその時々の国家経済や戦況に合わせ野戦服のデザインや素材を変更していきます。その中でも初期モデルでありながら、すでに完成の域に達したと言えるのがM36野戦服です。当然、この形に至るまで様々な試行錯誤がありました。
なお分類上、野戦服をM(Model)+年としていますが、ドイツ軍においての正式な呼称ではありません。
本日紹介するのはM36野戦服の前身ともいえるM35野戦服です。青味の強いフィールドグレーのフェルト生地に、ダークグリーンの襟はまさに大戦初期のドイツ兵のイメージです。
冒頭で述べた通り、M35野戦服の以前には、33年製(M33)、34年製(M34)と2種類のバリエーションが存在しています。
左記は、海外の専門書「FELDULSE」に掲載されている写真です。左がM33野戦服、右がM34野戦服です。1933年4月1日にM33野戦服が導入されました。
翌年1934年6月11日に内蔵サスペンダーが導入され、それに対応する為、同年11月1日にM34野戦服が採用となります。そして翌月12月10日には襟が薄緑色に変更されました。
よって両者を見分けるポイントは襟の色とベルトフック金具用ホールの有無です。M33野戦服は襟と本体が同じフィールドグレイ色で、M40野戦服と非常によく似ています。一方M34野戦服は薄い緑色でよく見ると本体と違うことが分かります。
「FELDBLUSE」はドイツ陸軍の野戦服の専門書で、現存する野戦服や当時の写真をふんだんに用い、野戦服の変遷を系統だてて説明しています。またM36以前の実物野戦服も多く掲載されており、しかもそのほとんどが新品に近い状態という驚くべき内容です。一家に一冊、持っておいて損は無いお奨めの資料本です。
一年毎という頻繁な変更のせいか戦前の写真では野戦服の混在がしばしば見られます。
この写真でも後列の兵士はM33野戦服、前列右側の兵士はM34野戦服を着ています。Thüringer Waldと手書き文字があるので、チューリンゲンの森で行われた演習後の記念撮影でしょうか?後列真ん中の兵士がベルトに花束を挟んでいるのが興味深いです。
なお前列の兵士が被っている略帽は1935年に仕様が変更される前のM34略帽かと思われます。
1935年9月10日、陸軍規定規程35年第505号(H.V.35,Nr.505)により襟章の真ん中の線(リッツェン・シュピーゲル)がダークグリーンに変更されます。襟章に合わせるように襟の色もダークグリーンとなり、M35野戦服とそれ以前の野戦服とは襟の色で明確に区別できるようになります。
こちらの写真ではM34野戦服(左)とM35野戦服(右)の襟の色の違いがはっきりと分かります。M35野戦服には1935年9月10日に導入された新型の襟章が付いています。
続いてM35野戦服とM36野戦服の内装の比較です。
【M35野戦服】
【M36野戦服】
M36野戦服と比べると、必要最低限の部分しかライナー(裏地)がないことが分かります。ライナーを減らすことでコットンの節約になったかも知れませんが、縫製にかえって工数がかかってしまっている気がします。
そして、このコットン製ライナーの縫い目がM35以前の野戦服を表側から判断する材料になっています。
ライナーの縫い目が表側でどのように見えているか、裏表の写真を並べてみました。
内蔵サスペンダーを通すライナーとその縫い目
背中とベルトフック金具用のホールのライナーとその縫い目
包帯用ポケットと腰ポケットのライナーとその縫い目。なおM35野戦服の包帯用のポケットにはボタンが付いておりません。ボタンが付くようになったのは1937年8月19日以降のようです。また腰ポケットのライナー部分にウエストを絞るドローコードが付いている服もあります。このドローコードは1936年3月31日に廃止されました。
こちらは当時のカラー写真ですが、何度も洗濯された為か縫い糸が漂白されて縫い目が分かるようになっています。
襟の色はM33野戦服のようですが、ベルトフック金具用のホールがあるのでM34野戦服なのかも知れません。しかし、これほど縫い目がはっきり見えている写真は珍しいです。
メーカー、サイズ、製造年のスタンプです。
〝判読不可能 Stuttgart〟
〝43〟 襟から肩の長さ 〝45〟 首回り
〝102〟 胸囲
〝71〟 着丈 〝62〟 袖丈
〝M35〟 ミュンヘン補給廠 1935年製
さて、これまでこの野戦服を襟の色からM35野戦服としてきましたが、実際本当にそうなのか?という疑問があります。
というのもドイツ軍では野戦服の襟を見栄え上、ダークグリーンに変更することはよくあることであり、色からモデルを特定することができないからです。
スタンプの年号はタイプを判断する有効な手段となり得ますが、M35野戦服の場合“35”の製造年スタンプが押されていても1935年9月以前・以降でモデルが分かれてしまいます。なにわともあれ、改造されたか否か襟を見てみましょう。
まずは表側から。襟章は1940年5月9日に採用となったマウスグレー共通兵科色で台布が付いたタイプです。もしクレタ従軍カフタイトルで紹介したRichter Friedrich氏の野戦服であれば1943年10月1日付けでOberjäger(上級猟兵)に昇格した際、トレッセの縫い付けに合わせて台布付き新型襟章に付け替えた可能性があります。
こちらは襟の裏側です。ダークグリーンのフェルト布を手縫いで貼り付けたように見えます。一方で襟自体は付け替えられた形跡がありません。その他、現在付いている襟章の縫い目の内側に台布無しの襟章を縫い付けた痕が見えます。
フェルト布の手縫い、台布無しの襟章の縫い痕から、この野戦服は元々はM34野戦服で所有者が襟を“今風”のダークグリーンに改造し、下士官昇格時に襟章を台布付きの共通兵科タイプに付け替えたとも考えることができます。
なお、襟には通常3つあるクラーゲンビンデ用のボタンがありません。この野戦服は程度から考えて、おそらく外出着として使用されたのでしょう。外出着ではクラーゲンビンデは不要として、襟の改造時にボタンが取り外されたままになったと思われます。
右胸の国家鷲章です。本来M34野戦服には1934年2月17日に採用された初期型国家鷲章(上記写真のM33、M34野戦服に付いているタイプ)が付いているはずですが、将校勤務服、礼服によく見られるシルバータイプの国家鷲章に変更されています。国家鷲章の付け替えも見た目を気にする外出着にはよくあることです。
山岳猟兵のエーデルヴァイス部隊章です。1939年5月2日に制帽用記章と共に制定されました。(H.V.39B, Nr. 196)
もともとエーデルヴァイスは1907年、オーストリア=ハンガリー帝国国土防衛隊のシンボルとして、皇帝フランツ・ヨーゼフI世により制定されたようです。(Wikipediaより)
今になって知ったのですが、エーデルヴァイスはedel(高貴な、気高い)と weiß(白)の組み合わせだったんですね。ぜんぜん知りませんでした。
余談ですが、BOBの第3話「カランタン」でドイツ軍の降下猟兵がこの花(本物)を胸に付けているのを見た空挺部隊の米兵が「戦士の証だ」と語るセリフがあります。高い場所にある花を取ってくるという勇敢な行為=降下猟兵に引っ掛けているわけですね。
そういえば、このブログの管理人の名前もエーデルマン・・・・はい、完全に名前負けしてます。。。
肩章は1938年11月26日に採用された先端が丸くなったタイプで、山岳猟兵の兵科色であるライトグリーンのパイピングとなっています。
左胸のポケットには勲章を佩用する為のループが二つあります。通常真ん中に一級鉄十字章、向かって左側に歩兵突撃章を佩用することになっています。
クレタ従軍カフタイトルについては前回の日記で触れているので説明は不要ですね。
以上でM35野戦服の紹介を終わります。
この趣味のブログを始めて1年9ヶ月、おかげ様で今回で100回目の更新となりました。
正直100回も続くとは思ってもみませんでした。タイトルの通り完全に泥沼状態です。(最近はコレクションよりブログの更新地獄・・・)この泥沼があとどれ位続くか分かりませんが、焦らず一歩一歩、漕ぐように進んでいきたいと思います。今後も応援よろしくお願いします。
なお、来週からしばらく外出・出張が続くため、更新が少し遅れるかも知れません。
次回はいよいよあの中身に挑戦してみますか?
なお分類上、野戦服をM(Model)+年としていますが、ドイツ軍においての正式な呼称ではありません。


本日紹介するのはM36野戦服の前身ともいえるM35野戦服です。青味の強いフィールドグレーのフェルト生地に、ダークグリーンの襟はまさに大戦初期のドイツ兵のイメージです。

冒頭で述べた通り、M35野戦服の以前には、33年製(M33)、34年製(M34)と2種類のバリエーションが存在しています。


左記は、海外の専門書「FELDULSE」に掲載されている写真です。左がM33野戦服、右がM34野戦服です。1933年4月1日にM33野戦服が導入されました。
翌年1934年6月11日に内蔵サスペンダーが導入され、それに対応する為、同年11月1日にM34野戦服が採用となります。そして翌月12月10日には襟が薄緑色に変更されました。
よって両者を見分けるポイントは襟の色とベルトフック金具用ホールの有無です。M33野戦服は襟と本体が同じフィールドグレイ色で、M40野戦服と非常によく似ています。一方M34野戦服は薄い緑色でよく見ると本体と違うことが分かります。
Feldbluse: The German Army Field Tunic 1933-45
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Jean-Phillippe Borg
Casemate Publishers
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「FELDBLUSE」はドイツ陸軍の野戦服の専門書で、現存する野戦服や当時の写真をふんだんに用い、野戦服の変遷を系統だてて説明しています。またM36以前の実物野戦服も多く掲載されており、しかもそのほとんどが新品に近い状態という驚くべき内容です。一家に一冊、持っておいて損は無いお奨めの資料本です。

一年毎という頻繁な変更のせいか戦前の写真では野戦服の混在がしばしば見られます。
この写真でも後列の兵士はM33野戦服、前列右側の兵士はM34野戦服を着ています。Thüringer Waldと手書き文字があるので、チューリンゲンの森で行われた演習後の記念撮影でしょうか?後列真ん中の兵士がベルトに花束を挟んでいるのが興味深いです。
なお前列の兵士が被っている略帽は1935年に仕様が変更される前のM34略帽かと思われます。
1935年9月10日、陸軍規定規程35年第505号(H.V.35,Nr.505)により襟章の真ん中の線(リッツェン・シュピーゲル)がダークグリーンに変更されます。襟章に合わせるように襟の色もダークグリーンとなり、M35野戦服とそれ以前の野戦服とは襟の色で明確に区別できるようになります。

こちらの写真ではM34野戦服(左)とM35野戦服(右)の襟の色の違いがはっきりと分かります。M35野戦服には1935年9月10日に導入された新型の襟章が付いています。
続いてM35野戦服とM36野戦服の内装の比較です。
【M35野戦服】

【M36野戦服】

M36野戦服と比べると、必要最低限の部分しかライナー(裏地)がないことが分かります。ライナーを減らすことでコットンの節約になったかも知れませんが、縫製にかえって工数がかかってしまっている気がします。
そして、このコットン製ライナーの縫い目がM35以前の野戦服を表側から判断する材料になっています。

ライナーの縫い目が表側でどのように見えているか、裏表の写真を並べてみました。


内蔵サスペンダーを通すライナーとその縫い目


背中とベルトフック金具用のホールのライナーとその縫い目


包帯用ポケットと腰ポケットのライナーとその縫い目。なおM35野戦服の包帯用のポケットにはボタンが付いておりません。ボタンが付くようになったのは1937年8月19日以降のようです。また腰ポケットのライナー部分にウエストを絞るドローコードが付いている服もあります。このドローコードは1936年3月31日に廃止されました。
こちらは当時のカラー写真ですが、何度も洗濯された為か縫い糸が漂白されて縫い目が分かるようになっています。

襟の色はM33野戦服のようですが、ベルトフック金具用のホールがあるのでM34野戦服なのかも知れません。しかし、これほど縫い目がはっきり見えている写真は珍しいです。

メーカー、サイズ、製造年のスタンプです。
〝判読不可能 Stuttgart〟
〝43〟 襟から肩の長さ 〝45〟 首回り
〝102〟 胸囲
〝71〟 着丈 〝62〟 袖丈
〝M35〟 ミュンヘン補給廠 1935年製
さて、これまでこの野戦服を襟の色からM35野戦服としてきましたが、実際本当にそうなのか?という疑問があります。
というのもドイツ軍では野戦服の襟を見栄え上、ダークグリーンに変更することはよくあることであり、色からモデルを特定することができないからです。
スタンプの年号はタイプを判断する有効な手段となり得ますが、M35野戦服の場合“35”の製造年スタンプが押されていても1935年9月以前・以降でモデルが分かれてしまいます。なにわともあれ、改造されたか否か襟を見てみましょう。

まずは表側から。襟章は1940年5月9日に採用となったマウスグレー共通兵科色で台布が付いたタイプです。もしクレタ従軍カフタイトルで紹介したRichter Friedrich氏の野戦服であれば1943年10月1日付けでOberjäger(上級猟兵)に昇格した際、トレッセの縫い付けに合わせて台布付き新型襟章に付け替えた可能性があります。

こちらは襟の裏側です。ダークグリーンのフェルト布を手縫いで貼り付けたように見えます。一方で襟自体は付け替えられた形跡がありません。その他、現在付いている襟章の縫い目の内側に台布無しの襟章を縫い付けた痕が見えます。
フェルト布の手縫い、台布無しの襟章の縫い痕から、この野戦服は元々はM34野戦服で所有者が襟を“今風”のダークグリーンに改造し、下士官昇格時に襟章を台布付きの共通兵科タイプに付け替えたとも考えることができます。

なお、襟には通常3つあるクラーゲンビンデ用のボタンがありません。この野戦服は程度から考えて、おそらく外出着として使用されたのでしょう。外出着ではクラーゲンビンデは不要として、襟の改造時にボタンが取り外されたままになったと思われます。

右胸の国家鷲章です。本来M34野戦服には1934年2月17日に採用された初期型国家鷲章(上記写真のM33、M34野戦服に付いているタイプ)が付いているはずですが、将校勤務服、礼服によく見られるシルバータイプの国家鷲章に変更されています。国家鷲章の付け替えも見た目を気にする外出着にはよくあることです。

山岳猟兵のエーデルヴァイス部隊章です。1939年5月2日に制帽用記章と共に制定されました。(H.V.39B, Nr. 196)
もともとエーデルヴァイスは1907年、オーストリア=ハンガリー帝国国土防衛隊のシンボルとして、皇帝フランツ・ヨーゼフI世により制定されたようです。(Wikipediaより)
今になって知ったのですが、エーデルヴァイスはedel(高貴な、気高い)と weiß(白)の組み合わせだったんですね。ぜんぜん知りませんでした。
余談ですが、BOBの第3話「カランタン」でドイツ軍の降下猟兵がこの花(本物)を胸に付けているのを見た空挺部隊の米兵が「戦士の証だ」と語るセリフがあります。高い場所にある花を取ってくるという勇敢な行為=降下猟兵に引っ掛けているわけですね。
そういえば、このブログの管理人の名前もエーデルマン・・・・はい、完全に名前負けしてます。。。


肩章は1938年11月26日に採用された先端が丸くなったタイプで、山岳猟兵の兵科色であるライトグリーンのパイピングとなっています。

左胸のポケットには勲章を佩用する為のループが二つあります。通常真ん中に一級鉄十字章、向かって左側に歩兵突撃章を佩用することになっています。
クレタ従軍カフタイトルについては前回の日記で触れているので説明は不要ですね。

以上でM35野戦服の紹介を終わります。
この趣味のブログを始めて1年9ヶ月、おかげ様で今回で100回目の更新となりました。
正直100回も続くとは思ってもみませんでした。タイトルの通り完全に泥沼状態です。(最近はコレクションよりブログの更新地獄・・・)この泥沼があとどれ位続くか分かりませんが、焦らず一歩一歩、漕ぐように進んでいきたいと思います。今後も応援よろしくお願いします。
なお、来週からしばらく外出・出張が続くため、更新が少し遅れるかも知れません。
次回はいよいよあの中身に挑戦してみますか?
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クレタ従軍カフタイトル (KRETA Ärmelband)
現在、欧州の経済危機が深刻化しています。そもそもの発端となったのがギリシャの財政赤字。ギリシャは年間のセックス回数が164回でぶっちぎり世界一というすごい国ですが、どんぶり勘定の国家経営のツケがまわってデフォルト(債務不履行)に陥りかけました。なおセックスうんぬん以外は管理人と共通しているので妙に親近感のある国です。一方で欧州の勝ち組といわれるドイツ、この対照的な2つの国には第二次世界大戦で戦った過去があります。
1940年10月28日「ローマ帝国の復活」を夢想するイタリア・ムッソリーニは7個師団10万の兵でギリシャに攻め込みます。
ギリシャ軍を過小評価したイタリア軍は装備も経験も不足した状態で戦闘を行い、当然のごとく防衛軍に撃退され、逆に当時併合していたアルバニアの一部を占領されてしまいます。
困ったムッソリーニはドイツに支援を要請、ヒトラーは「マリタ作戦」を発令、1941年4月6日にギリシャへの侵攻を開始します。(この流れは北アフリカと同じパターンですね)イギリスの支援の下、ギリシャ軍も奮闘しますが、猛攻するドイツ軍に敗退を続け、同月27日にアテネが陥落。30日にはイギリス、ギリシャの敗残兵57,000人が最後の砦クレタ島へ逃げ込みます。

クレタ島はギリシャ本土から160km南に離れた地中海東部に位置し、東西260km、南北60km(狭いところで12km)という細長い形をしており、全体的に山岳地形です。
クレタ島は古代ミノア文明が栄えた場所で、ギリシャ神話に出てくる怪物ミノタウロスの伝説が有名です。
そしてこの島で1941年5月20日から6月1日の12日間、イギリスを中心とする連合軍とドイツ軍との間で戦闘が行われます。
この戦闘はギリシャ本土から撤退したイギリス軍の追撃という目的のほかに、イギリス地中海艦隊の重要な港であり、枢軸国側のルーマニアの油田地帯を脅かす存在である航空基地の攻撃という意味合いがありました。さらに独ソ戦を開始するにあたり、東地中海の安全確保はどうしても必要でした。
ドイツ軍はこの作戦を「メルクール」(独:Unternehmen Merkur,ギリシャ神話の商業・盗賊の神メルクリウスに由来)と名づけ、爆撃機280機、急降下爆撃機150機、戦闘機180機、輸送機500機、グライダー80機そして降下猟兵と山岳猟兵合わせて29,000人を投入します。(Wikipediaより)
当時地中海の制海権はイギリス軍が握っていた一方で制空権はドイツ軍側にあった為、パラシュートとグライダーで降下猟兵が敵の基地付近に降下し、素早く制圧するという作戦でした。

20日の早朝、クルト・シュトゥデント大将指揮する第1降下猟兵師団の降下猟兵がユンカースJu52からのパラシュート降下を開始します。第一波はマレメとチャニア、第二波はレティムノンとイラクリオンの飛行場制圧が目標です。
しかし事前の猛烈な空爆でほとんどの対空兵器を破壊したにも関わらず、守備隊(降下作戦を想定した訓練を受けていた)の攻撃は熾烈極まりなく、パラシュートでの降下途中や、着地後ハーネスを外す間の無防備な時に攻撃を受け命を落とす兵士が続出。たとえ無事にパラシュートを外し体の自由が得られても多くの兵は猛砲火の中で、重火器コンテナーに近づくことができず、手持ちの拳銃、小銃もしくは手榴弾での応戦がやっとでした。
またグライダーでの降下もほとんどが着陸直後に迫撃砲弾の攻撃を受け多くの死傷者を出しました。
膨大な数の犠牲者を出し、完全な失敗に見えた降下作戦も、一降下猟兵の部隊がマレメ飛行場が見下ろせる107高地を確保したことで風向きはドイツ軍の方に変わります。
107高地確保の知らせを受けたシュトゥデント大将は、翌21日の攻撃目標をマレメ飛行場一本に絞ります。第5山岳猟兵師団の兵士を乗せたユンカース Ju52が飛行場近くの海岸に胴体着陸したのを機に、その後も激しい砲火の中、第100山岳猟兵連隊を乗せた輸送機が続々とマレメ飛行場に着陸を試みます。滑走路は射撃場の的のような状態でしたが、勇敢にも山岳猟兵は穴だらけの機体から飛び出して反撃、徐々に連合軍を圧倒していき、22日の午後4時には飛行場の完全制圧に成功します。
その後、制空権を持つドイツ軍はイギリス地中海艦隊に急降下爆撃などの攻撃を加え、絶望的とみた連合軍は次々に島から撤退。そして侵攻から11日後の6月1日、クレタ政府は降伏しクレタ島侵攻作戦はドイツ軍の勝利で幕を閉じます。
最後は強引に締めましたが、詳しい戦歴はこちらをご覧いただくとして、そろそろ本題に入りましょう。ちなみに上記の長い前置きはこれまでとは違い、今回のアイテムを語る上で必要不可欠なものなのでご容赦ください。
さて本日のネタはクレタ従軍カフタイトル(KRETA Ärmelband)です。クレタ島の戦いに参加した兵士に与えられました。
クレタ従軍カフタイトルはクレタ島侵攻作戦に参加した兵士の奮戦を称える目的で1942年10月16日に導入されました。
幅3cmのベージュのコットン生地に金糸で「KRETA」の文字とアカンサス葉の模様が刺繍されています。(アカンサス葉はギリシャ遺跡のコリント式柱頭などのデザインに使われています)
授章資格は以下の通りとなっています。
・1941年5月20日から27日の間、クレタ島侵攻作戦「メルクール」にパラシュートもしくはグライダーで降下した者
・同作戦で航空作戦に参加した者
・クレタ島周辺において1941年5月28日までの海上作戦に参加した者(5月22日にボートで輸送された兵士も含まれる)
このカフタイトル、写真のようにエーデルヴァイス部隊章のある野戦服に縫い付けられています。そして、胸ポケットには山岳猟兵Soldbuchが入っていました。(もちろん、当時からずっと入っていたわけではありません)カフタイトルが野戦服に縫い付けられた時期が戦中か戦後かは判りませんが、実物のようです。
名前はRichter Friedrich、階級はObergefreiter(41年5月)、所属は第100山岳猟兵連隊第3大隊第16中隊となっています。
2ページと3ページ目です。鉛筆の文字が見えづらくなっていますが、上級伍長は1916年4月24日生まれのようです。クレタ島侵攻時には25歳ですね。Soldbuchは野戦服の胸ポケットに入れ常に所持することが義務付けられていました。このSoldbuchも所有者の胸ポケットに入れられ幾多の戦闘を潜り抜けてきたのでしょう、補修だらけで今にも破れそうです。
前回紹介したアフリカ従軍カフタイトルもそうですが、このような章記を授章していればSoldbuchに記録があるはずで、入手後真っ先にチェックしました。下記が授章歴を記録するページです。
東部戦線従軍記章(42年9月1日)、歩兵突撃章(42年9月18日)、二級鉄十字章(42年12月6日)、一級鉄十字章(43年7月30日)の授章記録はあるのですが、クレタ従軍カフタイトルの記録がありません。記述が無ければ授章していないことになります。
上級伍長が第100山岳猟兵連隊に所属していたのは間違いなく、授章していないとすると作戦時に怪我や病気、もしくは休暇で戦線を離脱していた可能性が考えれます。ということで入院履歴のページをチェックしました。
やはり、1941年5月23日から6月3日まで陸軍野戦病院(Armee-Feldlazarett )で入院していたようです。病院のナンバー(612)からギリシャのテッサロニキにあった野戦病院であることが判明。なお病名(Krankheit)は戦闘による負傷ではなく扁桃腺炎。
師団記録を調べると、第16中隊は輸送機ではなく、海上から上陸する部隊に編成されたようです。想定の範囲ですが、21日の深夜にイギリス海軍によって攻撃・撃沈された輸送船団に乗っていた可能性があります。
Friedrich上級伍長は退院した後、東部戦線に送られ授章歴の通り一級鉄十字章に値する活躍をします。転属記録が無いことから第100山岳猟兵連隊の一員として有名なモンテカッシーノの戦いにも参加したことはほぼ間違いないでしょう。(Wehrpassがあれば確認できるのですが)
そして奇跡的に生きて終戦を迎えます。クレタ従軍カフタイトルは得られなかったのかも知れませんが、生きて家族の元に戻ったことは、どんな勲章よりも素晴らしいことだと私は思います。


1940年10月28日「ローマ帝国の復活」を夢想するイタリア・ムッソリーニは7個師団10万の兵でギリシャに攻め込みます。
ギリシャ軍を過小評価したイタリア軍は装備も経験も不足した状態で戦闘を行い、当然のごとく防衛軍に撃退され、逆に当時併合していたアルバニアの一部を占領されてしまいます。

困ったムッソリーニはドイツに支援を要請、ヒトラーは「マリタ作戦」を発令、1941年4月6日にギリシャへの侵攻を開始します。(この流れは北アフリカと同じパターンですね)イギリスの支援の下、ギリシャ軍も奮闘しますが、猛攻するドイツ軍に敗退を続け、同月27日にアテネが陥落。30日にはイギリス、ギリシャの敗残兵57,000人が最後の砦クレタ島へ逃げ込みます。

クレタ島はギリシャ本土から160km南に離れた地中海東部に位置し、東西260km、南北60km(狭いところで12km)という細長い形をしており、全体的に山岳地形です。
クレタ島は古代ミノア文明が栄えた場所で、ギリシャ神話に出てくる怪物ミノタウロスの伝説が有名です。
そしてこの島で1941年5月20日から6月1日の12日間、イギリスを中心とする連合軍とドイツ軍との間で戦闘が行われます。
この戦闘はギリシャ本土から撤退したイギリス軍の追撃という目的のほかに、イギリス地中海艦隊の重要な港であり、枢軸国側のルーマニアの油田地帯を脅かす存在である航空基地の攻撃という意味合いがありました。さらに独ソ戦を開始するにあたり、東地中海の安全確保はどうしても必要でした。
ドイツ軍はこの作戦を「メルクール」(独:Unternehmen Merkur,ギリシャ神話の商業・盗賊の神メルクリウスに由来)と名づけ、爆撃機280機、急降下爆撃機150機、戦闘機180機、輸送機500機、グライダー80機そして降下猟兵と山岳猟兵合わせて29,000人を投入します。(Wikipediaより)
当時地中海の制海権はイギリス軍が握っていた一方で制空権はドイツ軍側にあった為、パラシュートとグライダーで降下猟兵が敵の基地付近に降下し、素早く制圧するという作戦でした。


20日の早朝、クルト・シュトゥデント大将指揮する第1降下猟兵師団の降下猟兵がユンカースJu52からのパラシュート降下を開始します。第一波はマレメとチャニア、第二波はレティムノンとイラクリオンの飛行場制圧が目標です。
しかし事前の猛烈な空爆でほとんどの対空兵器を破壊したにも関わらず、守備隊(降下作戦を想定した訓練を受けていた)の攻撃は熾烈極まりなく、パラシュートでの降下途中や、着地後ハーネスを外す間の無防備な時に攻撃を受け命を落とす兵士が続出。たとえ無事にパラシュートを外し体の自由が得られても多くの兵は猛砲火の中で、重火器コンテナーに近づくことができず、手持ちの拳銃、小銃もしくは手榴弾での応戦がやっとでした。
またグライダーでの降下もほとんどが着陸直後に迫撃砲弾の攻撃を受け多くの死傷者を出しました。

膨大な数の犠牲者を出し、完全な失敗に見えた降下作戦も、一降下猟兵の部隊がマレメ飛行場が見下ろせる107高地を確保したことで風向きはドイツ軍の方に変わります。

107高地確保の知らせを受けたシュトゥデント大将は、翌21日の攻撃目標をマレメ飛行場一本に絞ります。第5山岳猟兵師団の兵士を乗せたユンカース Ju52が飛行場近くの海岸に胴体着陸したのを機に、その後も激しい砲火の中、第100山岳猟兵連隊を乗せた輸送機が続々とマレメ飛行場に着陸を試みます。滑走路は射撃場の的のような状態でしたが、勇敢にも山岳猟兵は穴だらけの機体から飛び出して反撃、徐々に連合軍を圧倒していき、22日の午後4時には飛行場の完全制圧に成功します。

その後、制空権を持つドイツ軍はイギリス地中海艦隊に急降下爆撃などの攻撃を加え、絶望的とみた連合軍は次々に島から撤退。そして侵攻から11日後の6月1日、クレタ政府は降伏しクレタ島侵攻作戦はドイツ軍の勝利で幕を閉じます。
最後は強引に締めましたが、詳しい戦歴はこちらをご覧いただくとして、そろそろ本題に入りましょう。ちなみに上記の長い前置きはこれまでとは違い、今回のアイテムを語る上で必要不可欠なものなのでご容赦ください。
さて本日のネタはクレタ従軍カフタイトル(KRETA Ärmelband)です。クレタ島の戦いに参加した兵士に与えられました。

クレタ従軍カフタイトルはクレタ島侵攻作戦に参加した兵士の奮戦を称える目的で1942年10月16日に導入されました。
幅3cmのベージュのコットン生地に金糸で「KRETA」の文字とアカンサス葉の模様が刺繍されています。(アカンサス葉はギリシャ遺跡のコリント式柱頭などのデザインに使われています)

授章資格は以下の通りとなっています。
・1941年5月20日から27日の間、クレタ島侵攻作戦「メルクール」にパラシュートもしくはグライダーで降下した者
・同作戦で航空作戦に参加した者
・クレタ島周辺において1941年5月28日までの海上作戦に参加した者(5月22日にボートで輸送された兵士も含まれる)

このカフタイトル、写真のようにエーデルヴァイス部隊章のある野戦服に縫い付けられています。そして、胸ポケットには山岳猟兵Soldbuchが入っていました。(もちろん、当時からずっと入っていたわけではありません)カフタイトルが野戦服に縫い付けられた時期が戦中か戦後かは判りませんが、実物のようです。

名前はRichter Friedrich、階級はObergefreiter(41年5月)、所属は第100山岳猟兵連隊第3大隊第16中隊となっています。

2ページと3ページ目です。鉛筆の文字が見えづらくなっていますが、上級伍長は1916年4月24日生まれのようです。クレタ島侵攻時には25歳ですね。Soldbuchは野戦服の胸ポケットに入れ常に所持することが義務付けられていました。このSoldbuchも所有者の胸ポケットに入れられ幾多の戦闘を潜り抜けてきたのでしょう、補修だらけで今にも破れそうです。
前回紹介したアフリカ従軍カフタイトルもそうですが、このような章記を授章していればSoldbuchに記録があるはずで、入手後真っ先にチェックしました。下記が授章歴を記録するページです。

東部戦線従軍記章(42年9月1日)、歩兵突撃章(42年9月18日)、二級鉄十字章(42年12月6日)、一級鉄十字章(43年7月30日)の授章記録はあるのですが、クレタ従軍カフタイトルの記録がありません。記述が無ければ授章していないことになります。
上級伍長が第100山岳猟兵連隊に所属していたのは間違いなく、授章していないとすると作戦時に怪我や病気、もしくは休暇で戦線を離脱していた可能性が考えれます。ということで入院履歴のページをチェックしました。

やはり、1941年5月23日から6月3日まで陸軍野戦病院(Armee-Feldlazarett )で入院していたようです。病院のナンバー(612)からギリシャのテッサロニキにあった野戦病院であることが判明。なお病名(Krankheit)は戦闘による負傷ではなく扁桃腺炎。
師団記録を調べると、第16中隊は輸送機ではなく、海上から上陸する部隊に編成されたようです。想定の範囲ですが、21日の深夜にイギリス海軍によって攻撃・撃沈された輸送船団に乗っていた可能性があります。

Friedrich上級伍長は退院した後、東部戦線に送られ授章歴の通り一級鉄十字章に値する活躍をします。転属記録が無いことから第100山岳猟兵連隊の一員として有名なモンテカッシーノの戦いにも参加したことはほぼ間違いないでしょう。(Wehrpassがあれば確認できるのですが)
そして奇跡的に生きて終戦を迎えます。クレタ従軍カフタイトルは得られなかったのかも知れませんが、生きて家族の元に戻ったことは、どんな勲章よりも素晴らしいことだと私は思います。

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