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Heinrich Stretz伍長(第17装甲師団第40装甲擲弾兵連隊)

こんにちはエーデルマンです。本日は先日入手した第17装甲師団第40歩兵連隊所属兵士のゾルトブーフ(Soldbuch)と勲記(Urkunde)/所有証明書(Besitzzeugnis)から師団とそこに所属していた一兵士の戦いを時系列に紹介したいと思います。なお、ヴェアパス(Wehrpass)が残念ながら存在していない為、兵士個人の活動は、師団の行動記録をベースにした推測であることを予めお断りしておきます。

ゾルトブーフの所有者名はハインリヒ・シュトレッツで1919年9月19日にバイエルン州バンベルク群オーバーハイト (Oberhaid)で生まれ。1940年10月10日に入営、第27通信補充中隊で基礎訓練を受けた後、1941年2月14日に第17装甲師団第40歩兵連隊第2大隊本部(17 Panzer Division Schützen-Regiments 40 Stab II)に配属されます。

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なお第17装甲師団は1936年10月1日にアウグスブルク第27歩兵師団が前身で1938年3月のオーストリア制圧作戦、1939年9月のポ-ランド侵攻、1940年5月のフランス侵攻に参加した後、1940年11月1日に第17装甲師団として再編成されます。

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第17装甲師団の師団マーク。まんま円マークです。

第17装甲師団は1941年6月のバルバロッサ作戦において、中央軍集団、ハインツ・グデーリアン指揮下の第二装甲集団に配置されソ連へ侵攻。ブグ川を越えてミンスクへ向かい、1941年6月22日から29日で行われたミンスク包囲戦(ビアウィストク=ミンスクの戦い)での勝利に貢献します。

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この時シュトレッツ上等兵(Gefreiter)は優れた活躍をしたようで、ゾルトブーフ(Soldbuch)の記録によれば1941年7月27日付で二級鉄十字章(Eiserne kreuz 2. klasse)を授与されます。

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その後、第17装甲師団は「タイフーン作戦」に参加する為、首都モスクワへ進撃します。師団は10月3日にオリョール、10月6日にはブリャンスクを攻略します。

さらにモスクワ攻略を目指す師団に立ちはだかったのは、秋の長雨で泥濘と化したロシアの未舗装路とソ連軍の新型戦車T-34/76です。T-34/76の幅広い履帯は泥沼化した状態でも進むことが出来、傾斜装甲はIII号やIV号戦車の徹甲弾をことごとく弾き、ドイツ兵にいわゆる「T-34ショック」を与えます。

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T-34/76とドイツ軍の主力戦車であるIII号戦車の比較。T-34/76の76は戦車砲の口径で当時のドイツ軍標準装備の37mmに比べて倍の威力がありドイツ軍戦車の射程外から攻撃が可能。またT-34はIII号戦車と比べて曲面が多く、避弾経始を考慮した装甲になっています。(ただし初期のT-34は無線機が搭載されておらず、戦車兵の練度も低かった為、ドイツ軍は連携プレーでなんとか互角の戦いに持ち込むことも可能でした)

第17装甲師団の攻撃目的はトゥーラに決定されます。トゥーラは中世から外敵(タタール人など)から幾度にも渡る包囲攻撃に耐えた要塞都市であり、また18世紀から鉄や兵器工業の拠点として発展しました。モスクワを防衛するソ連軍の兵力を削ぐにもトゥーラの攻略は必須となります。

9月30日から10月30日の戦線。濃い矢印は第二装甲集団の進撃コース。(出典:Wikipedia)
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ところで上記の地図でも分かる通り、1か月間の移動距離は第二装甲集団が最も長く、当然兵站路は長く伸び切った状態になってしまいます。元々ドイツ軍の東方への鉄道輸送能力は不十分で、さらにトラック輸送もロシアの道路は舗装されておらず秋季は雨や雪ですぐに泥沼化し、輜重隊は前線部隊に追いつけず、常に武器弾薬や燃料、食料不足に悩まされます。

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このような状態でもドイツ軍はトゥーラ包囲に成功しますが、物資不足に喘ぐ部隊にとって強固に要塞化された都市の攻略は容易では無く、膠着状態のまま迂回してモスクワへ進撃することを決定します。

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雪中行軍する第17装甲師団兵士。11月に入ると気温は急激に下がり、マイナス20℃以下になることも。戦車や装甲車のエンジンオイルが凝固してしまい、車体の下に穴を掘りそこで焚き火をしてエンジンを温めて始動する必要があったようです。

前線将兵の多くが侵攻時に支給された装備のままだった為、防寒着の配備が要請されますが、前述のとおりロジスティックスの問題でほとんど前線に供給されることはありませんでした。この間、凍傷にかかる兵士が続発し、戦闘での傷病をも上回る異常事態となります。

11月末には第4装甲集団が西方面から攻撃を加え、クレムリンまで25kmの地点のモスクワ郊外まで到達しましたが、それ以上進撃する戦力はもはやドイツ軍には残されていませんでした。

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これを機とみたソ連軍は12月初旬に反攻作戦を開始、ドイツ軍は一転して守勢に回ることになります。第17装甲師団はトゥーラから撤退し、オリョールの北東地区まで防衛線を下げます。

さてここでシュトレッツ上等兵に話を戻します。LEXIKON DER WEHRMACHTによれば第17装甲師団はトゥーラ包囲網に加わっており、上等兵もその場にいたことは間違いありません。

ゾルトブーフの授章ページを見ると、1942年1月12日付で戦車突撃章(銅)(Panzerkampfabzeichen-Bronze-)を授章しています。
PD17_13-1.jpg 

所有証明書:BESITZZEUGNIS
Besitzzeugnis (所有証明書)

(Dienstgrad)
(階級)
Dem Gefr.(軍曹
 
(Vor=und Zuname)(氏名)
Heinrich Stretz  (ハインリヒ・シュトレッツ)

(Truppenteil)(所属部隊)
Stab II/ S.R.40
(第40歩兵連隊第2大隊本部)


wurde das
Panzerkampfabzeichen

(戦車突撃章)
― Bronze―
(銅)

Div.-Gef.-St., den 5.1.42.
(1942年1月5日師団司令部にて)
(Ort und Datum)(場所と日付)

Oberst u. Führer 17.Pz.Div.(大佐 第17装甲師団長)
(Dienstgrad und Dienststellung)(階級と職務)
Licht, Rudolf-Eduard大佐(当時)による署名 。
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戦車突撃章は、戦車戦における戦車兵の戦功を称えるために1939年12月20日に制定されました。1940年6月6日には銀章に加えて銅章が制定され、戦車以外の装甲車に搭乗している兵士も勲章の授与対象にとなりました。
戦車突撃章(銅)の授与資格は下記の通りです。

・それぞれ別の日に行われた突撃に、計三回参加した者
・突撃で負傷した者
・突撃で勇敢な行動をとった者

ドイツ装甲部隊の戦い方については、“グロースドイッチュランド・師団写真史に記述があるので掲載します。

“グロースドイッチュランド”師団写真史―東部戦線におけるGD機甲擲弾兵師団1942‐1944
トーマス マックギール レミー スペツァーノ
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1942年と1943年における機甲部隊の基本的な陣形は鋭い楔(くさび)形であり、戦車を先頭に立てた戦車大隊が後方に行くに従って幅を広げながら展開するというものだった。典型的な例では、2個中隊が並んで進み、その後を大隊の本部中隊、さらに第3中隊が続く。通常、自走式の砲兵部隊は後ろにつき、ハーフトラック(装甲兵員車)の機甲擲弾兵部隊は戦闘に立つ戦車部隊の後ろに位置する。

-グロースドイッチュランド”師団写真史―東部戦線におけるGD機甲擲弾兵師団1942‐1944より-

シュトレッツ上等兵はハーフトラック「Sd.Kfz.251」に搭乗し戦車に随伴して戦う、機械化歩兵として戦功を立てたと考えられます。

モスクワ攻防戦が終了した後も、第17装甲師団は1942年11月までオリョールを保持します。この間、シュトレッツ上等兵は伍長に昇進、そして当然の事ながら東部戦線冬季戦記章を授章します。

1941/42年東部戦線冬季戦記章:WINTERSCHLACHT IM OSTEN 1941/42

GR103-29.jpg

勲記:URKUNDE
/PD17_15-2.jpg
 IM NAMEN DES FÜHRERS 
UND
OBERSTEN BEFEHLSHABERS
DER WEHRMACHT

(総統兼国防軍最高司令官の名において)
IST DEM

Uffz Stretz  (シュトレッツ伍長)

AM 20.8 42 (1942年8月20日)

DIE MEDAILLE 
WINTERSCHLACHT IM OSTEN
1941/42

(1941/42年東部戦線冬季戦記章)
(OSTMEDAILLE)(東部戦線従軍記章)

VERLIEHEN WORDEN. (ここに授与する)

FÜR DIE RICHTIGREIT:(代理署名)

Obertsu. u. Rgts.-Kdr.
(大佐 連隊長)


授章条件は1941年11月15日から1942年4月15日での14日間での14日間の戦闘参加なのでシュトレッツ軍曹は該当します。 

・14日間戦闘に参加した者(空軍兵士は30回の出撃)
・60日間非戦闘活動に従事した者
・戦闘で負傷した者
・戦死した者
・戦傷章に値する程度の凍傷もしくは冬季の風土による負傷をした者

同じ時期に伍長は一級鉄十字章も授章しています。

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残念ながら一級鉄十字章の勲記は失われてしまっており、ゾルトブーフの授章記録のみ。授章は1942年8月24日で署名は東部戦線従軍記章と同じWalter Henrich大佐です。シュトレッツ軍曹がどのような戦功をあげたかは不明ですが、41年という比較的初期の時期から、かなり目覚ましい活躍をしたのでは無いかと思います。(後になるほど一級、二級鉄十字の授章基準は緩くなった為)

1942年11月19日、ソ連軍は反攻作戦、"天王星(ウラヌス)作戦”を実施、第6軍を中心とした約33万人の枢軸軍はスターリングラードで包囲されます。
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すぐさまソ連の包囲網を突破し第6軍に補給物資と増援部隊を送るための「回廊」を作り上げる「冬の嵐作戦」(と、裏では第6軍が包囲網から脱出させる「雷鳴作戦」)が立てられ、マンシュタイン元帥を司令官とするドン軍集団が新設されます。

第17装甲師団は“火消し役”としてドン軍集団に加わることになり12月10日までにオリョールから南西540kmのミレロヴォへ移動、そこからさらに南西250kmのコテリニコヴォへと進軍し、LVII(第57)装甲軍団 第4装甲軍に加わります。第17装甲師団は12月12日の作戦開始と同時に戦闘に加わる予定でしたが、ソ連軍の反攻に備えて戦力を温存しておきたいヒトラーは最初同師団の使用をなかなか許可しませんでした。

1942年末のスターリングラード戦線(出典:Wikipedia)
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コテリニコヴォはマンシュタインが冬の嵐作戦の開始点とした場所でスターリングラードの中心から130kmの距離に位置します。

その後の展開についてはWikipediaから引用します。
14日、マンシュタインはヒトラーを説得してヒトラーがチル川からの攻勢の為に保持していた第17装甲師団を攻勢部隊に加えることに成功し、17日より第17装甲師団は左翼で攻勢に加わった。16日にマンシュタインは、LVII装甲軍団が、ムイシコワ川を越えて包囲網に到達できる見込みが少なくなりつつあるので、第6軍が南西に向かって攻勢(脱出)をかける事を求めたが、ヒトラーはこれを拒否した。

 ムイシコワ川へのドイツLVII装甲軍団とソ連第2親衛軍の競争は、結局ソ連軍が勝ち、ドイツ軍の到着前に第2親衛軍はムイシコワ川に布陣した。17日から21日まで、ムイシコワ川で、激戦が続いたが、LVII装甲軍団は、ついにソ連軍の防衛線を破ることはできなかった。

19日には、マンシュタインは、軍集団情報参謀のアイスマン少佐をスターリングラードに送って、パウルスの説得を試みたが、パウルスと第6軍参謀長のアルツゥール・シュミット少将は、今の第6軍には脱出作戦をやれる燃料も力もないと、脱出作戦の発動について否定的な回答を行い、これを受けて、改めてヒトラーは脱出作戦の発動を拒否した。

23日には、第6装甲師団はチル川戦線へ転用され、事実上、救出作戦は打ち切りとなった。第51軍と第2親衛軍は、22日よりムイシコワ川の線で攻勢に出て、24日には、ドイツ軍をアクサイ川まで押し戻してしまった。
-Wikipedia「冬の作戦」より-

この作戦で第17装甲師団は大きな損害を受け、30輌あった戦車(III号、IV号)が最後は戦車は8輌、対戦車砲は1門となり12月末にロストフまで撤退します。

スターリングラードの戦いで圧勝したソ連軍はハリコフの奪還を狙う「星作戦」を発動、結果としてベルゴロド、ハリコフ、クルスクを奪回します。しかしながらあまりの進撃の速さに補給線が伸びきってしまい、燃料不足で多くの車両が稼働できないという失敗を犯してしまいます。

PD19.jpg

マンシュタインはこの機を逃すまいと反撃に出ます。(第3次ハリコフ攻防戦)ロストフで戦力の補充をした第17装甲師団はドン軍集団から改組された南方軍集団の一つ、第48装甲軍団 第1装甲軍に編入され攻防戦に投入されます。
PD22.jpg
第3次ハリコフ攻防戦の詳細な経緯は省略しますが、シュトレッツ軍曹は、この作戦期間中の戦功により白兵戦章(銅)(NAHKAMPFSPANGE I. Stufe) を授章します。

CCC.jpg 

所有証明書:BESITZZEUGNIS
PD21
Besitzzeugnis (所有証明書)

(Dienstgrad)(階級)
Dem Unteroffizier(伍長)
 
(VOR-UND FAMILIENNAME)(氏名)
Heinrich Stretz  (ハインリヒ・シュトレッツ)

(TRUPPENTEIL)(所属部隊)
StabII. / Pz.Gren.Rgt.40
(第40装甲擲弾兵連隊第2大隊司令部)


VERLEIHEICH FÜR TAPFERE TEILNAHME 
AN 15 NAHKAMPFTAGEN

(勇敢な15日間における近接戦闘参加に対し)

DIE 1.STUFE DER 
NAHKAMPFSPANGE

(白兵戦章 銅)

(ORT UND  DATUM) (場所・日付)
Im Felde, den 1.6.1943
(1943年6月1日前線にて)

(UNTERSCHRIFT)(署名)
gez. Henrich
*gez=gezeichnet 署名省略

(DIENSTGRAD UND DIENSTSTELLE)(階級と職務)
Oberst und Rgt.-Kdr.
(大佐 連隊長)


Für die Richtigkeit(代理署名)
Lt. und Rgt.Adj. (少尉 連隊長副官)


所属部隊の名称は1942年7月5日付で歩兵連隊(S.R=Schützen-Regiments)から装甲擲弾兵連隊(Pz-Gren.Rgt=Panzer Grenadier-Regiments)へ変更されています。白兵戦章は近接攻撃を行った兵士に与えられる戦功章で、授章する条件は日数で金章(III. Stufe)が50日、銀章(II. Stufe)が30日、銅章(I. Stufe)が15日となっています。

PD23.jpg 
突撃砲に跨乗し前線へ移動する装甲擲弾兵。

6月に授章していますが、3月初旬~中旬にハリコフで行われた戦闘で授章条件を満たしたことは間違いありません。なぜならハリコフ攻防戦後、春の泥濘期に入ったこと、部隊には休養が必要だったこともあり、独ソ双方の軍事行動が「ツィタデレ作戦」(5月初旬に開始する予定が、7月まで延期)まで行われなかった為です。

PD25.jpg
なお、ゾルトブーフには1943年4月1日から17日までOschatz(ドイツ)の軍用予備病院で”21”(=腸カタルもしくは胃カタル)による入院記録があり、退院後は5月2日まで回復休暇を取得しています。前回の1943年1月の入院も同じ病名です。

PD24.jpg
シュトレッツ伍長のポートレイト。授章した全ての戦功章を偏用していることから、ハリコフ攻防戦の後に撮影されたことは間違いなく、1943年9月9日から24日の休暇中に写真館で撮影したものと思われます。

撮影には古参兵らしくダークグリーン襟のM36野戦服を着用しています。襟章は1933年採用のリッツェンが兵科によって違う初期のタイプです。ゾルトブーフには最初の野戦服は1940年11月15日に1着支給されていることが記録されており、1943年5月3日には新しい服、恐らくM42野戦服が1着支給されていますが、撮影に着用している野戦服は見た目が新しく、個人で仕立てた外出用の野戦服で撮影したと思われます。

PD31.jpg
延期された「ツィタデレ作戦」が7月5日に開始され、史上最大の戦車戦「クルクスの戦い」が行われます。第17装甲師団はこの戦いには参加せず、予備兵力として後方で守備にあたります。クルクスの戦いに敗れた後、9月にドネツからドニエプル川西側へ後退、翌年の44年には、師団はコルスン=チェルカッシー包囲戦(1944年1月24日 ~2月16日)に救援部隊として前線へ向かいます。

ところで伍長のゾルトブーフには1944年2月2日付で新しい装備一式を受領した記録があり、その時の所属部隊は第40装甲猟兵連隊では無く、第110装甲猟兵連隊です。これにより2月以前に第11装甲師団へ転属したこと判明しました。

LEXIKON DER WEHRMACHTで両師団の戦歴を見てみます。

PD30.jpg
どちらも同じ第8軍に所属しており、第11装甲師団は1月末、第17装甲師団は2月初旬に包囲網に対して攻撃を行っています。
この包囲戦でドイツ軍側は19,000人の戦死者・捕虜・行方不明者を出しますが、40,000人強が脱出に成功しており、「ドニエプル川におけるスターリングラード攻防戦の再来」は免れることが出来ました。

800px-11th_Panzer_Division_logo_2.jpg800px-11th_Panzer_Division_logo_3.jpgPD26.jpg 

第11装甲師団のシンボルは3種類。左から正式な師団マーク、クルスク戦車戦時のマーク、そして非公式の"幽霊"マーク。
こちらはユーゴスラヴィア侵攻作戦時の写真。車体には正式な〇に縦一文字のマークと幽霊マークを併記しています。
Bundesarchiv_Bild_101I-770-0280-20,_Jugoslawien,_Panzer_IV

包囲網から脱出した後、第11装甲師団はフランスへ配置転換となり、フランス国内を転々とした後、バルジの戦い(1944年12月16日~1945年1月25日)、そしてレマゲンの戦い(1945年3月7日)に参加します。
ゾルトブーフを見る限り、シュトレッツ伍長がこれらの戦いに関わった形跡は見当たりませんが、ゾルトブーフに同梱されていた師団発行の休暇証明証と乗車券からバルジの戦いの直前11月9日から12月1月まで休暇で故郷のオーバーハイドに戻ったことが分かります。
PD29-1.jpg
PD28-2.jpg
PD28-1.jpg

ゾルトブーフの記録は1945年1月14日が最後となっており、その後のシュトレッツ伍長の足取りは残念ながら不明となっています。兵士が所持するゾルトブーフが存在していること、どこか伍長の面影のある初老の人物の写真がゾルトブーフに同梱されていたことから、生きて故郷へ戻れたと信じたいと思います。


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この記事へのコメント

- otto - 2020年05月07日 18:02:31

非常に素晴らしいセットです!
その上この激戦に次ぐ激戦の中で生き残れたであろうことは慶賀です。休暇証明書にあるTapferkeitsurlaubは正にその通りで、これは確か末期に入って導入された、特に功績のある前線将兵向けの用語だったと記憶しています。実に興味深く拝読させて頂きました。なお”戦車突撃章”は昔から続く誤訳であり、戦車戦闘章か装甲戦闘章が適当と思います。

Re: タイトルなし - エーデルマン - 2020年05月07日 20:29:43

Ottoさん

コメントありがとうございます!
有名な会戦レベル以外に、その数倍の中小規模の戦闘を生き残れたのは驚きです。しかも一切負傷していない、、、強運としか言いようがないです。
おっしゃる通り、Tapferkeitsurlaubは直訳すると武勇休暇でした。これまで数々の功績を讃えて与えられた休暇であることは間違いないですね。
戦車撃破章は英語の“Panzer assault Badge”の邦訳からでしょうね。ドイツ語→英語翻訳だとTank battle badgeなので確かに戦車戦闘章ですが、突撃としたのは、その方がイメージ的には良いからでしょうか。
他にもお気づきの点があればコメント宜しくお願いします。

- otto - 2020年05月08日 10:21:25

そうなんですよね。ドイツ軍装研究は戦後英米が進んでいたのでその傾向は強いんです。因って結構おかしな単語を刷り込まれています、「降下猟兵」とか...。まあ国内では問題ありませんが本場ドイツにでも行ったときは"Panzersturmabzeichen",
とか"Landungjaeger"とおかしな言葉になってしまうので注意が必要です。
シッファーの一冊にドイツ陸軍の肩章コレクションのみを紹介した本が有りますが、素晴らしいコレクションにも拘らず兵科名などドイツ語併記が無い為に著しく資料性が欠けていてガッカリした覚えがありました。

Tapferkeitsurlaubは通常休暇よりも優遇性が高く、列車の客室も普通よりランク上の物が手配されるといった特典がありましたが、シュトレッツ伍長の場合矢張り末期
の為か残念ながら3等になってしまっていますね。まあ、列車に乗れたこと自体が特典だったかもしれません。発効が11月9日、つまりミュンヒェン一揆の21年目記念日と言うのは戦意発揚の意味がありそうです。

Re: タイトルなし - エーデルマン - 2020年05月09日 09:00:38

逆に英語→日本語にする際にも旧軍の制度や装備品の名前を使ったケースもあるので注意が必要ですね。BrotbeutelなんかははちゃんとBreadbagと訳されているのに邦訳では雑嚢になってますね。まぁ、ドイツと日本で生活様式も違う中で言葉だけで用途まで含めて理解するにはある程度の“意訳”も仕方なしといったところでしょうか?いずれにせよ先達が苦労されたことには感謝しています。

Tapferkeitsurlaub以外にも休暇(urlaub)にはいくつかの種類あったようです。
Erholungsurlaub-回復休暇(軽傷や単なる骨休み的な)
Genesungsurlaub:回復休暇(重症)
Heimalsurlaub:帰郷休暇
Einsatzurlaub:永続勤務休暇
Sonderurlaub:特別休暇(親族の見舞いや冠婚葬祭、スポーツ選手が試合に参加する場合などに適用)
Weihnachten:聖誕節(クリスマス )休暇
Nachturlaub:夜間休暇
Wochenendurlaub:週末休暇
Festtagsurlaub:祝日休暇
Prothesenurlaub:義足休暇
Kurzurlaub:短期休暇
Ernteurlaub:収穫休暇
Fronturlaub:前線離脱休暇
などなど。義足休暇は直訳なので意味不明ですが、四肢に障害が生じた場合に得られる休暇のことでしょうか?

- otto - 2020年05月09日 10:00:42

義足や義手の寸法取り、発注、調整に充てた様な感じはしますね。ちなみにtapferkeitsurlaubは44年9月導入の様です。
Nachturlaub.....ステキな響きです💛
最後にドイツ軍歌「もしも休暇を貰ったら」を付けておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=83YME3jywL4

Re: タイトルなし - エーデルマン - 2020年05月09日 12:11:47

ottoさん

再々のコメントありがとうございます。義足や義手の寸法取りの為の休暇、なるほどリアリティがありますね!それだけの負傷しても軍務に就く職業軍人の為って感じでしょうか。
tapferkeitsurlaubの導入時期情報ありがとうございます。敗戦色が濃くなりつつある時期に、いかにも戦意高揚の為に導入された感じですね。
「おい、NachturlaubやるからSoldatenbordell行って来い!ほら、リュンメルテューテ忘れんなよ!」なんて(笑)
「もしも休暇を貰ったら」兵士の嬉しさが伝わってきますね。

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Author:エーデルマン
脳内の99%をドイツ軍が占めている、そんなアラフィフ親父です。
注)当時のドイツ軍の装備・生活用品に興味がありますが、特定の団体・思想を支持するものではありません。

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ナルヴァ戦線で活躍したオットー・カリウスの自伝を宮崎駿監督が漫画化。「ティーガー薬局」を営むカリウスを訪問しインタビューという企画が素晴らしい

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